Wed 151223 ウダクダシュダ フレーとウラー HP発祥の地(速攻サンフランシスコ15)
これを書き始めた時点で、1月16日午前0時15分を回った。よい子の受験生諸君は、もうみんなグッスリ眠りについた頃である。明日の総活躍を夢みてお手手をギュッと握りしめ、健康な熟睡を楽しんでいるだろう。
もちろんだからと言って、どうしても眠れずに焦り&涙ぐんでいる諸君を「悪い子」などと決めつけているのではない。眠れずに、ふと「今井ブログでも読むか」とムックリ起き上がってしまった受験生だって、クマ助は心から愛している。
「眠れないから ☞ 今井ブログ」ということは、「今井のブログでも読めばきっと眠くなるだろう」という発想であって、そりゃマコトに光栄である。超難解なカントやヘーゲル、別の意味で難解なマルクスにエンゲルス、そういう偉人たちの著書と同じ効果をもたらすだなんて、スゴい名誉と言っていい。
しかしやっぱり今井君は、「眠れない」という涙の向こう側に「woulda coulda shouda」の類いの無意味な後悔があるように思う(スミマセン、昨日の続きです)。日本語表記で発音を示しておけば「ウダ・クダ・シュダ」である。
Brian Mcknightにならって「shouda woulda coulda」の順番なら「シュダ・ウダ・クダ」。「ああしとけばよかった、こうしとけばよかった」とウダウダする気持ちは、日本語でも英語でも「ウダ」という語感に凝縮されるよウダ。
ついでにここで「間投詞」についても述べておく。中学校の国語の授業では「感動詞」という習い方をした。1年の時は越後谷先生。中2が高橋先生。中3で近藤先生。3人とも「間投詞」ではなく「感動詞」とおっしゃった。
若き今井君はどうしても国語の先生のお気に入りになれず、いつも先生とカタキ同士みたいにイガミあう結果になったので、ホントはフルネームも記憶しているが、礼儀上ファーストネームのみ記しておく。
高校の英文法の授業では、「間投詞」という呼び方に変わった。歓喜や悲嘆などの強い感動を、天を仰いで短いヒトコトで表現するのが間投詞。「Oh!!」とか、「Ah!!」とか、まあそんなヤツらである。
「woulda coulda shouda」の場合は、軽蔑・嫌悪・不快・ムカツキを示す間投詞を伴う。「Ugh!」 とか「Humph!」であるが、それぞれの発音は電子辞書で確認してくれたまえ。何より大切なのは、「woulda coulda shoudaは、軽蔑・嫌悪・ムカツキ・不信の間投詞を伴う」という点である。
ついに大切な試験が終了 ☞ 緊張から解放されようとしている時、諸君の口をついて出る言葉が「ウダクダシュダ」であってはならない。家族も友人も先生も、その後悔を耳にしてムカツキの間投詞を抑えきれず、「Humph! ウダクダシュダ!!」と表情を歪めるのである。
卒論でもシューカツでも、模試でも昇進試験でも同じこと。昨日も書いた通り、「早く仮定法過去完了は卒業して、canとwillとshallに切り替えるべし」である。「できる。やろう。やるぞ」じゃなきゃ、周囲でハラハラしている人たちだって、不快とムカツキと不信を感じるようになる。
正反対に、「喜び・称賛・祝賀・敬意・歓喜の間投詞」というのもある。「Great!」に「Beautiful!」、「Fine!」に「Excellent!」 、「Bravo!」に「Well done!」である。もちろん「Hooray!」なんてのもある。
この時期、某予備校がそこいら中の駅に貼り出すポスターに「フレーフレー受験生」という言葉がある。あのキャッチフレーズ、ワタクシが予備校講師になる前から、もう30年も続けて使用しているが、「フレー」とはHooray、英語における称賛・祝賀・歓喜の間投詞だったのである。
英語の語源がドイツ語にあることも珍しくない。そのドイツ語の語源が、さらに東のポーランドにあったり、もっと東のロシアにあったり、もっともっと東のモンゴルまでたどれるとなると、何だかそっちのほうが面白くて、とても受験どころではないという気分になる。
ドイツ語の辞書によると、英語の「Hooray」と同じ意味の間投詞が「hurra」である。ポーランド語とロシア語を覗いてみると、「H」の音が消滅して「ウラー」。ロシア語表記は「ypa」となるらしい。
日露戦争の昔話を聞いたことがあれば、203高地で苦戦していた日本軍が、ロシア軍の「ウラー」という絶叫をどれほど恐れたか、知っているはずだ。もちろん、1945年8月8日・ソ連の対日宣戦布告以降、旧満州地域に残っていた日本人が何より恐れたのも「ウラー」の叫びであった。
そのまた語源が、どうやらチンギスハンやフビライ時代のモンゴル語かもしれないということになると、広大なユーラシア大陸を東から西へ、再び西から東へ、激しくうねりながら間投詞の大河が流れていたのを目の当たりにするようである。
読みかじりであるが、古いモンゴルの言葉でも、歓喜や称賛は「フラー」という音で表現したんだそうな。その辺は白鵬か鶴竜か照ノ富士に尋ねてみるのが一番だが、大相撲の次代を背負う照ノ富士どんには、脚と鎖骨のケガをチャンと治療してもらうのが先。引退したモト旭天鵬あたりにしておきますかな。
さて、眠れないで困っていた受験生諸君も、そろそろ眠くなって来たんじゃないですかな。逆に「サンフランシスコ旅行記を楽しみしてんのに♨」というヒトビトは、そろそろ怒り心頭に発してきたんじゃないですかな。
では、眠くなった受験生はそろそろベッドに入りなされ。「カンケーネーじゃん♨」と怒っている人、「あれれ、オマモリ写真が掲載されるはずじゃなかったの?」とムカついているアナタ、まあ最後までキチンと読んでくだされ。
そもそも、今日の1枚目の写真のこの地味さは何事なんだ? どっかのホッタテ小屋。別にサンフランシスコでなくても、日本のどこの町にもありそうな、ごくありふれた住宅街の奥の物置小屋。塗装もダサい緑色。「何でこんなのがオマモリなんだ?」というお怒り、まさにその通りである。
しかし諸君、これこそが実は最高のオマモリだとワタクシは信じるのだ。このホッタテ小屋こそ、シリコンバレー発祥の地。HPことヒューレットパッカードの始まりは、何とこのダサい緑の物置小屋だったのである。
スタンフォード大学の学生だったビル・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードは、1939年、この物置小屋でヒューレットパッカードを設立。小屋と言うか、正式には「車庫」であるが、まさに夢の舞台がここだったのである。
この2人、スタンフォード大学の「文学士」だったり、工学修士だったり、その関心の幅の広さも抜群。そういう「ダブルメジャー」を通して人生のX軸とY軸を獲得、会社経営でZ軸も獲得して、一直線の馬車馬じゃなく、広大な世界と宇宙を縦横無尽に生きた。
そういう人生の出発点になり、シリコンバレーの発祥ともなったのが、ここ。学生と教授と研究者たちが楽しげに闊歩する「パロ・アルト」の駅前から、University Aveを5ブロック北上、アップルストアとチーズケーキファクトリの角を右折して、また5ブロック。信じがたいほど静かな住宅街に、車庫はあった。
だからこの地味な小屋の姿こそ、若い諸君の最高のオマモリになるとワタクシは信じたのである。まだ眠れずに焦っている受験生も、グッスリ眠ったあとの音読でピリッと目覚めた諸君も、受験生の周囲にいてハラハラしているヒトビトも、みんなこの写真をダウンロードして、オマモリにしてくれたまえ。
1E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D'HOFFMANN②
2E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D'HOFFMANN①
3E(Cd) Marc Antoine:MADRID
13A(β) 塩野七生:ローマ亡き後の地中海世界(上):新潮社
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もちろんだからと言って、どうしても眠れずに焦り&涙ぐんでいる諸君を「悪い子」などと決めつけているのではない。眠れずに、ふと「今井ブログでも読むか」とムックリ起き上がってしまった受験生だって、クマ助は心から愛している。
「眠れないから ☞ 今井ブログ」ということは、「今井のブログでも読めばきっと眠くなるだろう」という発想であって、そりゃマコトに光栄である。超難解なカントやヘーゲル、別の意味で難解なマルクスにエンゲルス、そういう偉人たちの著書と同じ効果をもたらすだなんて、スゴい名誉と言っていい。
しかしやっぱり今井君は、「眠れない」という涙の向こう側に「woulda coulda shouda」の類いの無意味な後悔があるように思う(スミマセン、昨日の続きです)。日本語表記で発音を示しておけば「ウダ・クダ・シュダ」である。
(今日の1枚目は「最高のオマモリ」だ。「何でこんな物置小屋の写真が?」という不審はごもっとも。しかしこれこそ「シリコンバレー発祥の車庫」なのだ)
Brian Mcknightにならって「shouda woulda coulda」の順番なら「シュダ・ウダ・クダ」。「ああしとけばよかった、こうしとけばよかった」とウダウダする気持ちは、日本語でも英語でも「ウダ」という語感に凝縮されるよウダ。
ついでにここで「間投詞」についても述べておく。中学校の国語の授業では「感動詞」という習い方をした。1年の時は越後谷先生。中2が高橋先生。中3で近藤先生。3人とも「間投詞」ではなく「感動詞」とおっしゃった。
若き今井君はどうしても国語の先生のお気に入りになれず、いつも先生とカタキ同士みたいにイガミあう結果になったので、ホントはフルネームも記憶しているが、礼儀上ファーストネームのみ記しておく。
高校の英文法の授業では、「間投詞」という呼び方に変わった。歓喜や悲嘆などの強い感動を、天を仰いで短いヒトコトで表現するのが間投詞。「Oh!!」とか、「Ah!!」とか、まあそんなヤツらである。
「woulda coulda shouda」の場合は、軽蔑・嫌悪・不快・ムカツキを示す間投詞を伴う。「Ugh!」 とか「Humph!」であるが、それぞれの発音は電子辞書で確認してくれたまえ。何より大切なのは、「woulda coulda shoudaは、軽蔑・嫌悪・ムカツキ・不信の間投詞を伴う」という点である。
(シリコンバレー発祥の車庫の前で、ビル・ヒューレットとデイヴィッド・パッカード、2人の青年の軌跡を忍ぶ)
ついに大切な試験が終了 ☞ 緊張から解放されようとしている時、諸君の口をついて出る言葉が「ウダクダシュダ」であってはならない。家族も友人も先生も、その後悔を耳にしてムカツキの間投詞を抑えきれず、「Humph! ウダクダシュダ!!」と表情を歪めるのである。
卒論でもシューカツでも、模試でも昇進試験でも同じこと。昨日も書いた通り、「早く仮定法過去完了は卒業して、canとwillとshallに切り替えるべし」である。「できる。やろう。やるぞ」じゃなきゃ、周囲でハラハラしている人たちだって、不快とムカツキと不信を感じるようになる。
正反対に、「喜び・称賛・祝賀・敬意・歓喜の間投詞」というのもある。「Great!」に「Beautiful!」、「Fine!」に「Excellent!」 、「Bravo!」に「Well done!」である。もちろん「Hooray!」なんてのもある。
この時期、某予備校がそこいら中の駅に貼り出すポスターに「フレーフレー受験生」という言葉がある。あのキャッチフレーズ、ワタクシが予備校講師になる前から、もう30年も続けて使用しているが、「フレー」とはHooray、英語における称賛・祝賀・歓喜の間投詞だったのである。
英語の語源がドイツ語にあることも珍しくない。そのドイツ語の語源が、さらに東のポーランドにあったり、もっと東のロシアにあったり、もっともっと東のモンゴルまでたどれるとなると、何だかそっちのほうが面白くて、とても受験どころではないという気分になる。
(スタンフォード大学のある「パロ・アルト」には、カルトレインで向かう)
ドイツ語の辞書によると、英語の「Hooray」と同じ意味の間投詞が「hurra」である。ポーランド語とロシア語を覗いてみると、「H」の音が消滅して「ウラー」。ロシア語表記は「ypa」となるらしい。
日露戦争の昔話を聞いたことがあれば、203高地で苦戦していた日本軍が、ロシア軍の「ウラー」という絶叫をどれほど恐れたか、知っているはずだ。もちろん、1945年8月8日・ソ連の対日宣戦布告以降、旧満州地域に残っていた日本人が何より恐れたのも「ウラー」の叫びであった。
そのまた語源が、どうやらチンギスハンやフビライ時代のモンゴル語かもしれないということになると、広大なユーラシア大陸を東から西へ、再び西から東へ、激しくうねりながら間投詞の大河が流れていたのを目の当たりにするようである。
読みかじりであるが、古いモンゴルの言葉でも、歓喜や称賛は「フラー」という音で表現したんだそうな。その辺は白鵬か鶴竜か照ノ富士に尋ねてみるのが一番だが、大相撲の次代を背負う照ノ富士どんには、脚と鎖骨のケガをチャンと治療してもらうのが先。引退したモト旭天鵬あたりにしておきますかな。
(カルトレインの内部。諸君、空席はまだいっぱい残っている。さあ、留学だ。どんどん海外を志したまえ)
さて、眠れないで困っていた受験生諸君も、そろそろ眠くなって来たんじゃないですかな。逆に「サンフランシスコ旅行記を楽しみしてんのに♨」というヒトビトは、そろそろ怒り心頭に発してきたんじゃないですかな。
では、眠くなった受験生はそろそろベッドに入りなされ。「カンケーネーじゃん♨」と怒っている人、「あれれ、オマモリ写真が掲載されるはずじゃなかったの?」とムカついているアナタ、まあ最後までキチンと読んでくだされ。
そもそも、今日の1枚目の写真のこの地味さは何事なんだ? どっかのホッタテ小屋。別にサンフランシスコでなくても、日本のどこの町にもありそうな、ごくありふれた住宅街の奥の物置小屋。塗装もダサい緑色。「何でこんなのがオマモリなんだ?」というお怒り、まさにその通りである。
しかし諸君、これこそが実は最高のオマモリだとワタクシは信じるのだ。このホッタテ小屋こそ、シリコンバレー発祥の地。HPことヒューレットパッカードの始まりは、何とこのダサい緑の物置小屋だったのである。
(スタンフォード大のブックショップで買ったショットグラス。今日はまだ、勝利の美酒を注ぐのは遠慮しておく)
スタンフォード大学の学生だったビル・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードは、1939年、この物置小屋でヒューレットパッカードを設立。小屋と言うか、正式には「車庫」であるが、まさに夢の舞台がここだったのである。
この2人、スタンフォード大学の「文学士」だったり、工学修士だったり、その関心の幅の広さも抜群。そういう「ダブルメジャー」を通して人生のX軸とY軸を獲得、会社経営でZ軸も獲得して、一直線の馬車馬じゃなく、広大な世界と宇宙を縦横無尽に生きた。
そういう人生の出発点になり、シリコンバレーの発祥ともなったのが、ここ。学生と教授と研究者たちが楽しげに闊歩する「パロ・アルト」の駅前から、University Aveを5ブロック北上、アップルストアとチーズケーキファクトリの角を右折して、また5ブロック。信じがたいほど静かな住宅街に、車庫はあった。
だからこの地味な小屋の姿こそ、若い諸君の最高のオマモリになるとワタクシは信じたのである。まだ眠れずに焦っている受験生も、グッスリ眠ったあとの音読でピリッと目覚めた諸君も、受験生の周囲にいてハラハラしているヒトビトも、みんなこの写真をダウンロードして、オマモリにしてくれたまえ。
1E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D'HOFFMANN②
2E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D'HOFFMANN①
3E(Cd) Marc Antoine:MADRID
13A(β) 塩野七生:ローマ亡き後の地中海世界(上):新潮社
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