Sun 150614 今もなお公立高校天国 ちょうど100年前の準優勝 秋田で大演説がしたい | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 150614 今もなお公立高校天国 ちょうど100年前の準優勝 秋田で大演説がしたい

 6月末に岩手県花巻で大イベントがあり、そのついでに秋田まで足を伸ばした顛末については、すでに詳細を書いた通りである。

 午後8時ですっかり人影の消えた秋田駅前に茫然と立ち尽くし、どれほど故郷が心配になったか。なぜ岩手みたいなイベントを秋田県が率先して実施しないのか。我が故郷の行く末について、あれから10日経過してもまだ思い悩み続けているのである。

 例えば、高校野球である。1980年代まではまだ「東北の野球どころ」として知る人ぞ知る存在だった。落合博満も山田久志も石井浩郎尾も、石川雅規も摂津正も秋田県人であって、甲子園でのベスト8もベスト4も別に珍しくなかった。

 それが1990年後半から急に勝てなくなった。全国どこの県でも強豪私立が乱立する時代になったのに、21世紀の秋田県は完全に「公立天国」。2015年、甲子園に出場する本命も対抗も穴馬も、すべて公立校が占めている。
スープ
(羽田空港スイートラウンジでおいしいコーンクリームスープをいただく。今日はこれから大阪に移動だ)

 この夏に有力と目される高校は、春センバツで1勝した大曲工、3年前に保坂投手を中心に旋風を起こした能代松陽をはじめ、秋田南、秋田商、昨年の代表校・角館、それに我が母校である秋田高校。私立の「し」の字も見あたらないほどの公立天国。まるで昭和中期ような状況が続いている。

 そりゃ、これはある意味で理想の姿であって、関西リトルリーグから有力選手を大量に引き抜いた助っ人軍団ばかりが勝ち上がる構図には、もう日本中がウンザリだ。県代表とはとても思えない県代表の連続に、シラケムードが広がっている県も珍しくないだろう。

 しかし諸君、秋田の場合はちょっと話が違っている。「私立学校を開設しようと企画するヒトがいない」という県勢の萎縮が原因。私立の中学校や高校を開こうにも、県都の駅前をチラッと眺めただけで、「こりゃ無理だ!!」の叫びが上がってしまう。高校どころか、塾や予備校でもこの街で繁盛するには相当の苦労が伴いそうだ。
かつくら
(大阪空港で、まず床屋さん「そがわ」へ。しかし何だかトンカツ屋さんが気になる)

 甲子園に該当する夏の選手権大会が始まったのは、今からちょうど100年前、1915年である。第1次世界大戦のさなかであるが、我が母校 ☞ 秋田高校の前身・秋田中が東北代表として出場した。

 東北大会決勝は、秋田中23-0秋田農という秋田同士の決戦だったと記憶するが、何か事情でもあったのか、その記録は削除されてしまっているようである。

 第1回大会に出場したのは他に、早稲田実業、三重四中、京都二中、和歌山中、神戸二中、鳥取中、広島中、高松中、久留米商。神戸二中とは現在の兵庫県立兵庫高校、京都二中は京都府立鳥羽高校。鳥取中は鳥取西高校、高松中はもちろん香川県立高松高校。あれから100年、どこもみんな名門として健闘を続けている。

 100年前、秋田中の先輩諸氏の大活躍を振り返ってみよう。秋田には真偽の定かでない言い伝えがあって、
「大阪くんだりまで鞠投げにいくなんてバカげている」
「棒を振り回すのに、何で大阪まで行くんだ?」
と、パパや伯父さんに叱られた野球部員がたくさん存在したのだという。

 昔の日本では伯父さんと叔父さんの発言力が非常に大きかった。駿台予備校の暗記例文集「基本英文700選」なんかにも、uncleは頻繁に登場する。「伯父は私に通訳をやらせた」「上京してすぐに伯父を訪ねた」など、甥や姪の運命を決する場面における当時のオジの権力には驚かされる。
とんかつ
(三元豚ヒレカツ160グラムを貪る。ただし糖質制限ダイエット中の身。おコメは注文の段階でお断りして1粒も食べなかった)

 そうやってパパやオジや祖父に「鞠投げ」「棒振り」のバカバカしさを指摘された野球部員の中には、大阪行きをあきらめる者が続出。鞠とはボールのこと、棒とはバットのことであるが、「やむなく剣道部員が代役を務めた」「テニス部員が代わりで行った」など、いろんな伝説が残っている。

 それなのに、秋田中の快進撃は止まらない。準々決勝、三重四中に9-1で快勝。そういえば、昨年2014年には三重県の三重高校が準優勝したが、エースの今井重太朗君は今ごろどうしてるかね。彼が疲労を隠して誠実に力投する姿を見るたび、テレビの前のクマ助は「頑張れ」「頑張れ」と熱い涙を流したものだ。

 おっと話がそれそうだ。1915年、ベスト4に進出した我が秋田中は、優勝候補の筆頭 ☞ 東京の早稲田実業と激突。早実サイドとしては、何だか冗談のような相手にしか思えなかっただろう。

 だって諸君、1915年 ☞ 大正4年の秋田と東京だ。オシャレな東京人から見たら、(これはあくまで謙遜でいうのであるが)秋田はきっと「弥生時代の真っただ中」な感じ。まさか野球を知ってるだなんて、信じられなかったかもしれない。

 しかし何と、ここでも秋田が勝利するのである。準決勝のスコアは、3-1。早稲田実業としても、見守っていた大阪のヒトビトとしても、昭和な表現を許してもらえばまさに「目が点」であって、弥生後期のハニワ軍が、江戸東京のイナセな火消し軍団を蹴散らしたようなアリサマだっただろう。
大阪市内風景
(インターコンチネンタルホテルに到着。この4週間、1週間に1度の割で泊まっている。大阪は、小雨がパラパラいっている)

 こうして秋田中は見事に決勝進出を果たす。鞠投げと棒振りの得意な我がハニワ軍は、和歌山中を再試合の末に撃破してきた京都二中と対戦することになる。時に1915年8月23日。秋田はすでに赤トンボが乱舞し、見渡す限りの黄金の稲穂が優しい風に揺れる初秋の出来事であった。

 当時の秋田人から見て京都のカタガタは、まさに「殿上人か上達部(かんだちめ)か」ぐらいのヤンゴトナキお公家さま軍団。8世紀から9世紀にかけて、奈良や京都のカタガタにごくあっさりと征服され、長い間の隷属を余儀なくされた経験が、我々秋田人の深い記憶に残っている。

 だから諸君、京都人集団を目の前にしただけで、我々は「ハハハハハァーー!!」と絶叫してひざまずく気分になる(もちろん冗談でござるよ)。京都二中を相手に迎え、我が先輩諸氏のヒザはガクガク激しく震えたことだろう。

 ところが、大正の秋田県人はここでもまた思わぬ健闘を披露する。ピッチャーは、長崎。クロスファイヤー気味に相手打者の内角を攻める強気な投球で、なかなか得点を許さない。スコアは、次のように進んでいく。

チーム名  一 二 三 四 五 六 七 八 九
♡秋田中  0 0 0 0 0 0 1 0 0
京都二中  0 0 0 0 0 0 0 1 0

 何と、「優勝まであと6人」☞ 8回裏まで追いつめたのである。しかし諸君、エラーが多すぎる。いくら鞠投げ&棒振りでも、7失策もしてしまっては、さすがの長崎投手も心の乱れを抑制することが出来ない。その後のスコアは、次の通り。

チーム名 10 11 12 13
♡秋田中 0 0 0 0
京都二中 0 0 0 1x

 こうして、2-1で京都が勝利、初優勝を飾った。東北勢初の優勝のチャンスは実は100年前、目前に迫っていた。しかし延長13回の大熱戦の末、内野手のエラーで潰えてしまったのだ。鞠投げのもっと得意な野球部員が全員大阪に集っていたら、結果は違っていたかもしれない。
今井サン
(インフォーマルカクテルパーティーの招待状が「Dear 今井サン」に届いていた。しかし諸君、この時間じゃ奈良でのお仕事の真っただ中だ )

 あれから100年経過した2015年、このあたりから説き起こして、今井君はぜひ秋田県の高校生諸君に大演説をしたいのである。6月末には岩手県の高1のトップ200人を相手に英語学習法を語りまくったのであるが、ホントなら岩手より遥かに大きな危機感を持たなければならないのは、秋田県の若者なのだ。

「トップ200人」だなどと贅沢を言わない。500人でも1000人でもかまわない。県北で200人、県央で400人、県南で200人みたいな企画でもいい。

 高校野球やラグビーやバスケの話から説き起こして、もしこの今井君に90分を与えてもらえたら、県内の優秀な高校生が残らず握りこぶしをグイッと固め、「よーし、本日この瞬間から秋田を立て直すんべ」と雄叫びを上げるところまでもっていけると信じるのである。

 いったん若者たちがボンボン&ボーボー燃え盛る状況になれば、もう余計な心配はいらない。その勢いはまさに燎原の火のごとし。いやはや、単なるお節介かもしれないが、もし声さえかけてくれれば、クマ助は直ちに飛んでいく心の準備ができている。

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4E(Cd) Casals:BACH/THE 6 CELLO SUITES①
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