Sat 150530 弘前に桜を見に行く(ナポリ滞在記番外編1/プチカウントダウン4) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 150530 弘前に桜を見に行く(ナポリ滞在記番外編1/プチカウントダウン4)

 こんな唐突なカウントダウンもないだろうが、今日から6月27日まで、マコトに小規模なカウントダウンを実施する。6月27日、「3年連続1日も怠けずにブログを更新」という記録が達成できる予定なのである。

 高校や中学3年間を「皆勤賞」で1日も休まずに通い続けたとすれば、諸君が達成したその快挙と、クマ助があと4日で達成する記録とは、ほぼ同じぐらいの価値があるんじゃなかろうか。

 もちろん「たかがブログ」であって、気難しいオカタはそんなに大きな価値を認めないかもしれない。しかし諸君、もしその3年分を全部読んでみようと挑戦するなら、きっと夏休み40日かかっても読破は困難である。

 ごく平凡な予備校講師が、それほどのものを1日も休まずに書き続けた努力の継続だけにでも、温かい喝采を送る優しさがあってしかるべきなんじゃないか。

 そう考えて今日からプチカウントダウンを開始する。3年×365日、うるう年があったから1096日。「地球の裏側」からの更新も優に200回を超える。
弘前1
(4月24日、青森県の弘前城に満開の桜を見に出かける)

 そしてもう1つ、これもマコトに唐突であるが、今日からの3日間は「ナポリ滞在記・番外編」として、4月24日の日帰りお花見旅行の詳細を書き記しておきたい。

 その前日のテレビで「ソメイヨシノが満開になりました」というニュースを聞き、矢も楯もたまらずに駆けつけたのは、青森県の弘前城。ピンクの枝垂れ桜も7分咲き。あいにくの小雨模様だったが、重く灰色に曇った空には、白っぽいソメイヨシノより枝垂れ桜の濃厚なクレナイがよく映える。

 青森県弘前のお花見じゃ、ナポリ滞在記の番外編として「あまりにも唐突じゃないか」の感を否めない。ナポリは南国、「きみ知るや南の国」「レモンの花咲く国」であるのに対し、津軽平野は厳しい地吹雪の吹き荒れる極寒の地のイメージをぬぐえない。

 しかし諸君、ナポリが北緯41度、弘前が北緯40度。緯度の上ではほとんど変わらない。というか、むしろナポリのほうが北に位置する。

 そして諸君、何と言っても「遠くのお山」を眺めてみたまえ。ナポリから見上げるヴェスヴィオは1281メートル、弘前からの岩木山は1625メートル。振り仰いだ青い春の山の風景は、お互いに驚くほど似ているのである。

 ナポリは「海の街」のイメージが強いが、それは実際に訪問したことがないから。ヴェスヴィオはオレンジとレモンの果樹園の向こうにそそり立つ。岩木山が広大なリンゴ園にとりまかれているのと、雰囲気はソックリなのである。
巨大リンゴ
(弘前駅の巨大リンゴ。津軽三味線の演奏会も進行中)

 ましてやこの春の今井君は、日本でのお花見を全てあきらめて、春のナポリ滞在を敢行した。東京発が3月26日。帰国が4月9日。「東京でソメイヨシノが満開になった」というニュースを、遠い南イタリアを旅しながらヤフーニュースで読んだだけである。

 だから、帰国した後もまさに虎視眈々とお花見のチャンスを狙っていた。2013年春に旅したアメリカ東海岸では、日本に負けず劣らずサクラの花をエンジョイすることができたのだが、イタリアではなかなかそういうワケには行かなかった。

 言わば「リベンジ」であって、4月9日の帰国後は、東北でも北海道でもどこでもいいから、意地でもお花見旅をやりたかった。候補は、秋田の小京都・角館、青森県の弘前城、函館の五稜郭公園など。あんまり虎視眈々としていたから、クマのお目目がトラさんみたいに鋭利な切れ味になるぐらいであった。

 4月23日の段階で、「弘前城のソメイヨシノが満開」という情報を入手。ホントは23日に行きたかったのだが、諸君、「新青森への新幹線が満員」という状況じゃ、一端は計画から徹底せざるを得ない。

 そこで23日の午前中ずっとお部屋にこもってPCと悪戦苦闘。何としても東北新幹線の座席を確保して、「行くぜ、東北!!」を実現しようと様々なテクニックを駆使してみた。
きっぷ
(やっとのことでチケットを手に入れる)

 結果として手に入ったのは、
① 東京 ☞ 新青森の「はやぶさ」指定席チケット
② 新青森 ☞ 弘前の特急「つがる」指定席チケット
③ 新青森 ☞ 東京の「はやぶさ」グランクラスのチケット
の3枚である。

 弘前☞新青森のチケットが獲得できないが、ま、そこはせいぜいで40分程度。イザとなれば「タクシー」などというマホーの絨毯だって利用できる距離だから、その部分は放置したまま、とりあえず旅に出ることにした。

 快晴の東京駅から乗り込んだのは、「はやぶさ」最後尾1号車の2番D席。おそらく弘前に旅するヒトビトでギューギューの満席の中、奇跡的にこの席だけが空いていた。

 もちろん諸君、こういう旅で最も大切なのは、おいしいオベントー。東京駅のホームでオベントーとビアと日本酒を買って、いよいよ弘前への旅が始まった。

 そして諸君、青森県弘前市には、今井君は実は深い思い入れがある。何しろ弘前は、生まれ育った秋田県秋田市から一番近い「別の街」である。春には父や母と弘前のお花見に出かけたこともあれば、夏休みには城下町弘前の古い古い「ねぷた祭」も見た。
岩手山
(盛岡駅付近を進行中の新幹線から、岩手山がキレイに見えた)

 大昔、秋田から弘前の旅は、奥羽本線のディーゼル急行「きたかみ」を利用した。秋田から東能代まで、八郎潟の湖水と男鹿半島・寒風山の姿を右に眺めながらひたすら北上する。

 東能代で90°右に曲がり、秋田犬の産地・大館まで一気に東進。大館で再び90°今度は左に向きを変え、矢立峠の断崖絶壁をウネウネ北上して弘前を目指す。

 弘前の直前に「大鰐温泉」という鄙びた温泉町があって、ここは上級者コースをズラリと揃えた老舗スキー場が有名。冬の週末の幼い今井君は、父・三千雄に連れられて何度も大鰐温泉を訪れた。弘前から列車で10分の街である。

 コドモ時代のそういう経験があるから、今もなおクマ助としては弘前の街には特別の感情がある。太宰治が「津軽」の中で嘆いている通り、旧制弘前高校出身の太宰にとっても「そもそもこの街はダラシがないのだ」なのである。

 遥かな時代から、津軽平野の中心と言えば誰が何と言っても城下町弘前のはず。それがいつの間にか、元は寂しい漁村だったはずの青森市に追い抜かれ、太平洋側の八戸市の繁栄には指をくわえて眺めているだけ。岩木山とリンゴ畑の静寂の中に立ち尽くしたまま、21世紀の激流から取り残されていくばかりである。

 元・静岡大学総長だったクマ助の伯父・加藤一夫が、第2次世界大戦時に兵士として勤務していたのも弘前。戦前は「東京商大」と呼ばれた一橋大の学生だったから、軍隊でも経理を担当、危ない目には遭わなかったが、その頃の思い出をよく語ってくれたものである。
弘前2
(まもなく「花筏」が見られそうだった弘前城のお濠)

 弘前高校を卒業したあと、3年も浪人生活をしながら東京大学を目指して努力を続けたのが、23歳で早世した我が友K君であって、「弘前」という名前はクマ助の中ではそのままK君の記憶につながる。

 K君の記憶は、今も鮮やかである。突然の訃報に接したのは、5月26日の深夜。電話の向こうから「落ち着いて聞いてくれよ、Kが突然亡くなったんだ」と友人の声で知らされ、K君の下宿していた西武池袋線の桜台まで駆けつけた。ヨッパライが浮かれ騒ぐ終電を、はるばる乗り継いで行ったのである。

 全くワケが分からないまま、翌朝まで友人たちとK君の思い出を話して過ごした。翌朝も快晴、汗ばむほど暑い日だった。下宿から出棺ということになり、朝8時、我々は何故かコブシを振り上げながら「都の西北」を熱唱。K君とはあれっきりになってしまった。

 あれから数百年の月日が流れれば、もう「冥福をお祈りする」も何もない。「冥福」から長い月日が流れ、今も大学生のままのK君は、きっとニヤニヤ笑いながら、中年に達した我々の悪戦苦闘を見守っているに違いない。

 それは言わば「定点観測」であって、夭折した友人に定点観測してもらえるのは、クマの目から熱い涙が溢れるほど感動的な事実である。2015年の名残のお花見に弘前を選んだのは、まさにそういうK君への感謝を込めてのことなのであった。

1E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 3/4
2E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 4/4
3E(Cd) Krivine & Lyon:DEBUSSY/IMAGES
4E(Cd) Akiko Suwanai:DVOŘÁK VIOLIN CONCERTO & SARASATE
5E(Cd) Tommy Flanagan Trio:SEA CHANGES
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