Wed 150422 授業のクオリティ 想定問答集を丁寧に精選する 「ビリギャル」について | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 150422 授業のクオリティ 想定問答集を丁寧に精選する 「ビリギャル」について

 さて、今日はちょっと旅行記をお休みにして、
「わからないところを、すぐ質問できますか?」
「直接先生に質問できないんじゃ、困るんじゃありませんか?」
という疑問に対する書きかけ回答を、ここで完成しておきたいと思う。

 3日前の記事に回答Ⅰ、一昨日の記事に回答Ⅱを書いたが、3日前に示した
  ① 生徒の質問の実態 
  ② 授業のクオリティ
  ③ 「すぐ質問」はホントにいいことなのか
の3本柱のうち、まだ②「授業のクオリティ」を説明していなかった。

 あんまりいつまでもほったらかしにして、旅行記にウツツを抜かしていると、苦情やらお叱りやらが、いろんなところから噴出しかねない。特に「授業のクオリティ」という話になると、サッサと済ましてしまわないと何となく気恥ずかしいのである。
赤提灯
(下北沢の赤ちょうちんで、授業談義にふける)

 まあカンタンに言えば「質問の生徒がズラリと並ぶような授業って、ホントにいい授業だったのか?」ということである。

 1つのテーマについて90分もかけてタップリ説明し、それなのに
「よくわかりませんでした」
「納得できませんでした」
「サッパリ身につきませんでした」
と口を尖らせた生徒たちが、5人も10人も列を作ったとする。

 甚だしい場合は、教室にいた生徒が100人、「わかりませんでした」という生徒の列が20人。つまり5人に1人が「わからなかった」と感じた場合、その授業って、ホントに素晴らしい授業だったんだろうか。

 もちろんこの場合、
「5人に1人が質問に来たんなら、5人に4人、つまり80%はよく理解した計算なんだから、ケッコいいんじゃん?」
と考える人もいるはずだ。

 しかしそれはシロート考えであって、おそらくその「8割」は、理解をあきらめて帰っていっただけのこと。質問を遠慮したか、内気で列に並べなかったか、列の長さにヘキエキしたか、「どうせ質問したってわからない」と絶望を感じたか、そのどれかである可能性が高い。
下北沢
(下北沢南口、本多劇場付近。五月祭を控えた東大生も多い)

 だから、「質問の生徒が列を作るようなことがないように」が講師の基本的心がけ。「わかりませんでした」と言わせない授業をするように、「何をどんな順番でどう説明するか」、研鑽を重ねるべきなのだ。

 質問に行きたくても、そもそも質問を思いつくことが困難をきわめるような授業。魔法のようにわからされてしまって、「質問なんか、思いつかないよ」と嘆かせるようなクオリティ。うぉ、やっぱり恥ずかしいが、それが理想の授業である。

 要するに、「質問なんかに来られるはずがない」という授業なら、「先生に直接質問に行けますか?」は問題にもならない。「いつでも質問に来いよ」などとニタニタしていると、
「すいません、授業がどうも下手でして」
「うまく説明できないことが多くて、スミマセン」
みたいな、ちょっと頼りない態度に見えてしまうかもしれない。
ワイン
(店の内部はこんな感じ、授業談義にふけるのにピッタリだ)

 ただし、ここで大急ぎで付け足しておくが、それは何も「ボクは天才だ」「ボクは英語の神なんだ」の類いのフザケた発言をしているのではない。

 今井君は凡人中の凡人、というか、この短足ぶりではニンゲンであるかどうかさえ定かではないから「凡グマ中の凡グマ」である。ところが、凡人や凡グマには、凡人ないし凡グマならではの妙味や醍醐味があるのだ。

「生徒がどこで『わからない』と思うか、先にわかってしまう」
「生徒の疑問と、凡グマ自身の疑問が、ほぼ正確に一致する」
というのだから、これは便利この上ない。つまり予習の段階で、生徒の質問や疑問が手に取るようにわかってしまう。

 こりゃ便利でござるよ。だから今井君は事前に丹念に予習を重ねるのであって、例えば文法問題25問を90分で解説するにしても、1問1問についてありとあらゆる「想定問答集」を練り上げる。

 だから凡グマ今井の予習シーンは、もし客観視すればたいへん恥ずかしい。「こんな質問もくるだろう」「あんな質問もくるだろう」「おっとウッカリ、この質問を忘れていた」と、ニヤニヤ&ニタニタ、1人で手を打ってケタケタ爆笑したりする。
鶏唐揚げ
(ツマミもシンプルに、鶏の唐揚げ)

 考えられるあらゆる質問事項、生徒が居抱きそうないろいろな疑問を想定して、それを全てメモしていく。あとは、90分というワクを考えて、その想定問答集から厳しい取捨選択を行う。カッコよく言えば「疑問点の精選」であり、こうして90分全体のストーリーを組み立てる。

 こうなると、授業がわかりやすいのは当たり前。まずマクロの説明をして、そこに精選したミクロの想定質問と回答を当てはめていくと、あら不思議、「質問に行けない授業」が出来あがる。

「ココを質問に行こうと張り切っていたら、授業で先に言われちゃった」と生徒たちが悔しがるような予習を心がけるわけだ。凡グマならではの丁寧な予習は、一昨日話題になっていた「トンネルを高速で走るクマ」のイメージである。

 天才が可哀そうだったり、神童が生きにくいのは、あまりにオツムのレベルが高すぎて、生徒や庶民の思いや疑問を把握できない点にある。だから若い予備校の先生方なんかは、傲慢を捨て、あくまで謙虚に構えるべし、である。

 せめて予習の時には、そういう丁寧な視線を失くさないように、ケガしそうなところは先にキチンとケアをして授業を進めれば、大教室の一方通行の授業でも、長い質問の列なんか出来ないはずなのだ。収録授業でも同様である。

 まして「少人数教室においておや」。「質問対応」と称して長時間デレデレ世間話に興じるのは、単なる時間のムダ。何だかダラしない。一昨日も書いたことだが、「握手」「ナデナデ」「プレゼント」などツマランことをやっていると、やがて「壁ドン」などという緊急事態に発展しかねない。
ごぼう
(ゴボウの天ぷらもいいですな)

 しかし諸君、そこまで丁寧に想定質問集を作成し、予想される疑問を精選して授業に臨んでも、それでもまだ「予期せぬ質問」が寄せられることがある。

 この間も、ある生徒から
「最近スゴい話題になってる『ビリギャル』というのは、もしかして先生のハナシの中に登場する『菅本サン』のことですか」
という質問のお手紙をいただいた。

 確かに、話のシチュエーションがソックリなので、「ビリギャル」と「菅本サン」が同一人物なんじゃないかという質問はよくわかる。しかし、残念と言うか何と言うか、全くの別人、シチュエーションが偶然に一致しただけである。

 というか、こういうのは「よくある話」に過ぎないので、全然ダメだった生徒が何かのキッカケでグイグイ上に駆け上っていく様子は、予備校講師をやっていれば、何度も繰り返し目にする胸のすくような光景である。

 「菅本サン」の場合は、半年でボールペンを30本カラッポにした結果の「グイグイ」である。半年で30本ということは、1週間で1本の計算。そのぐらい書いて書いて書きまくって勉強すれば、誰だって成績は上がる。それだけのシンプルな話なので、「ビリギャル」ほど多種多様なエピソードを取り揃えた話ではない。

 だから受験生諸君、書いて書いて書きまくり、笑って笑って笑いまくり、長文は「授業に出ては音読」を繰り返して、第2の菅本サンなり第2のビリギャルなりに、諸君もなってくれたまえ。「質問の列に並ばなきゃいけない」みたいな強迫観念は、捨ててしまってかまわない。

1E(Cd) Münchinger & Stuttgart Chamber:BACH/MUSICAL OFFERING
2E(Cd) Jochum & Concertgebouw:BACH/JOHANNES-PASSION 1/2
3E(Cd) Jochum & Concertgebouw:BACH/JOHANNES-PASSION 2/2
4E(Cd) Schiff:BACH/GOLDBERG VARIATIONS
5E(Cd) Schreier:BACH/MASS IN B MINOR 1/2
total m122 y765 d16089