Tue 150421 朝からカプリ チケットのスッタモンダ ナポリ湾をわたる(ナポリ滞在記11) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 150421 朝からカプリ チケットのスッタモンダ ナポリ湾をわたる(ナポリ滞在記11)

 3月29日、ナポリの今井君は、何と朝5時にはもうムックリ起きあがって、外出の準備を始めていた。もっとも、外国旅行中はいつもこの行動パターンなので、朝5時起床 ☞ ブログ1本アップ、それから1時間ゆっくりお風呂につかって、その日の小旅行に向かって気分を盛り上げていく。

 しかし今日は、朝8時半にナポリの港からカプリ島行きのお船に乗る。ということは、遅くとも7時半にはもう部屋を出たいから、ブログ記事は昨夜のうちに準備しておいた。ワンクリックでアップしたら、すぐに出かけられるように万端整えてからベッドに入ったのである。うにゃ、マコトに勤勉なクマである。

 そう言えば昨日(5月14日)、「新潟県のトンネルをクルマ並みのスピードで疾走するツキノワグマ」という映像が話題になっていた。いやはや、豪快な疾走ぶりであったが、丸いお耳を後ろに寝かして走る懸命な後ろ姿こそ、我々ニンゲンも理想とすべき生き方の象徴と信じる。
ヴェスヴィオ
(穏やかなナポリ湾と朝のヴェスヴィオ。上唇の形が印象的だ)

 さて3月29日、右に穏やかなナポリ湾を見ながら港を目指す。湾の向こうには、朝日を後ろから浴びた壮麗なヴェスヴィオ。以前にも書いたけれども、2つの峰の真ん中に2000年前まで存在した富士山型値の三角錐が、79年のカタストロフィで一気に吹き飛んだ。

 暴君として宇宙一名高いネロの死後の混乱を収拾したのが、軍人皇帝ヴェスパシアヌス。コロッセオを建設させた名君である。ヴェスヴィオ大噴火はその息子ティトゥス帝の時代だったと記憶するが、今は穏やかなこの湾の海水も、降り注ぐ大量の噴石のせいで、さぞかし熱く沸き立ったことだろう。

 当時のことをいろいろ想像しながら、ナポリ・ベヴェレッロ港に到着、8時ちょうど。夏のシーズン中は長蛇の列ができて身動きもとれないはずのチケット売り場であるが、今朝はまあガラガラ。季節外れのカプリに向かう7~8人が、遠慮がちに列を作った。

 しかしここでもまた、イタリア独特の「ここじゃない、あっちだ」が始まった。明かりのついた窓口は1つだけ、しかも窓口の上には大きく「CAPRI」の表示があるのに、マコトに不機嫌なオジサマが出てきて、憤然とした態度で宙をコブシで打った。「ここじゃない、あっちだ」と遠くのほうを指し示すのである。

 並んでいた7~8人としては、何だか叱られたみたいでションボリするのであるが、とにかくワケがわからない。憤然としたご様子から考えて、「ここじゃない」のは明らかであるが、では「あっち」とはどこか。少なくともここ以外に明かりのついた窓口は見当たらない。
ヌオヴォ城
(ナポリ・ベヴェレッロ港からカステル・ヌオーヴォを望む。和訳すれば「新しいお城」だが、なんともはやパッとしない。その頭上にヴォメロの丘が見える)

 それでもまあ仕方がない。「ここじゃない」と吐き捨てるように言い放ったオジサマに「いや、ここだろう」「どうしてもここで買いたい」とダダをこねても、どうせラチは開かない。ラチを開けないままここで粘っていれば、船は時刻通りに出発してしまう。

 そこで7~8人は「あっち」のほうへ平行移動する。無下に叱られた窓口に向かって左の方向であるが、左端から3つ目の窓口の奥の薄暗闇で、何だかジーサマが蠢くのが目にとまった。不機嫌オジサマの意味する「あっち」とは、どうやらこのジーサマのことのようであった。

 この判断は正しかったので、明かりさえついていないこの薄暗闇こそ、今朝のカプリ行きのチケット売り場なのであった。時計は8時15分。船の出発は8時35分だから、やれやれ、どうやら間に合った。

 ところが諸君、そんなにカンタンにチケットが手に入るかと思ったら、そうは問屋が卸さないのが、イタリアのイタリアたるところだ。今井君に手渡すチケットを握ったまま、ジーサマは悠々と暗闇の奥に姿を消してしまった。

 ようやく出てきたジーサマの手に握られていたのは、彼のおクスリとペットボトルのお水。ジーサマは「現金以外受け取れない」と往復のチケット代40ユーロを受け取り、オカネを握りしめた段階で「そうだ、おクスリの時間だ!!」と思い出し、チケット手渡しなんか、もうどうでもよくなったらしい。
チケット
(ようやくチケットが手に入った。片道20ユーロちょいである)

 まあそういうスッタモンダを経て、8時30分、とうとうカプリ行きのお船に乗り込んだ。吹きさらしの甲板に出て、美しい朝の海を眺めながらカプリ島を目指す。何だかパッとしないヌオーヴォ城と、その背景のヴォメロの丘にしばし別れを告げて、カプリまで約1時間の船旅である。

 上クチビルの形のヴェスヴィオがどこまでもついてくるが、その麓が昨日のポンペイ、その向こうは「帰れソレントへ」で有名なソレントの町。ソレントの岬を回れば、中世の「イタリア4大海洋都市」のうちの1つ・アマルフィである。

 ヨーロッパ中世は1000年も続いたのであって、476年の西ローマ帝国滅亡から、1492年コロンブスの新大陸到着までを中世とする。地中海南岸の北アフリカには、アラブの海賊の根城が並び、シチリアと南イタリアはその襲撃の対象となり続けた。

 絶えず快速船で襲ってきては、人も物も根こそぎ奪っていく。7~8隻の小船隊に100名ほどが分乗し、足の速いアラブ馬も乗せてくる。上陸すれば町でも村でも一気に蹂躙し、破壊と焼き討ちの限りを尽くす。

 蹂躙の締めくくりは、略奪と拉致である。奪った金品は売ってカネに替え、人間のほうは奴隷市場に売り飛ばす。男子の奴隷は海賊船の漕ぎ手として鎖に繋がれ、彼らが櫂を漕ぐ海賊船が、再びイタリアの町を襲う。もちろん「その逆」もあって、1000年間そういう応酬が繰り返された。

 そこでこの海岸には、海賊対策の砦や塔が並んでいる。「トッレ・サラチェーノ」であるが、これほどまでにズラリと続くと、中世の地中海がどれほど悲惨だったか、愕然とする思いである。15世紀以降はこの砦や塔に大砲が据えられた。
カプリの絶壁
(カプリ島の絶壁。北アフリカからの海賊は、こんな絶壁でも乗り越えて1000年の攻撃を続けた)

 カプリ島はローマ帝国2代皇帝・ティベリウスの別荘が存在したことで有名。もともとティベリウスはお隣のイスキア島に別荘を持っていたが、豊かな温泉で名高いイスキアを手放してでもこのカプリを手に入れた。

 いわゆる「パックス・ロマーナ」は、カエサルが設計し、初代皇帝アウグストゥスが具体的な建設にあたり、ティベリウスが現実にシステムを動かしながら微調整して完成させた。その意味でティベリウスは名君のはずだが、どうもいろいろ評判が悪い。スエトニウス「ローマ皇帝伝」を通読すると、むしろカリグラやネロより扱いが悪いようである。

 どうやら、ティベリウスがカプリに入り浸り、ローマを留守にしがちだったのが悪帝の評価を定着させてしまったらしい。実際にはティベリウスの時代こそ、パックス・ロマーナが最もよく機能していた時代のはずなのだが、まあ人々の評価というのは、マコトにあてにならないものである。
カプリ島
(カプリ島に到着、9時30分)

 船が外海に出ると、南イタリアと言ってもさすがにまだ3月、外海の風は冷たい。それでもしばらくはヴェスヴィオを見ながら、甲板に出たまま強情にガマンしていたが、「あと15分」という段階でクマ助のガマンも限界がきた。暖かい船室に降りて10分、船は減速してカプリの港に入っていく。

 波は、まあ穏やか。出来れば今日のうちに「青の洞窟」ことグロッタ・アズーロを見ておきたいのだが、グロッタ行きの船が出るかどうかは、あくまで船会社の方の判断に任せなければならない。

 ①大潮の時は運航中止、②波が一定以上の高さなら運航休止。マコトに厳しい条件がある。お客の少ない10月から3月までは、「むしろ休止のほうが普通」らしい。いま到着した港の穏やかな波を眺めるに、十分にOKそうではあるが、まあここは運を天に任せるしかない。

1E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 4/6
2E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 5/6
3E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 6/6
4E(Cd) J.S.BACH/SILVIA(Cantata Opera in 3 Acts)1/2
5E(Cd) J.S.BACH/SILVIA(Cantata Opera in 3 Acts)2/2
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