Fri 150102 アヴィニョンの橋で 10年前の記憶 涼しくなった(夏マルセイユ滞在記29) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 150102 アヴィニョンの橋で 10年前の記憶 涼しくなった(夏マルセイユ滞在記29)

 9月8日夕刻、アヴィニョン法王庁宮殿の周辺を散策したクマ助は、「ほい、それでは次にサン・ベネゼ橋の勇姿を眺めに行きますかね」と決めた。

 「サン・ベネゼ橋」と聞いてすぐにピンとくる読者は少ないかもしれないが、「アヴィニョンの橋でー、踊るよ踊るよ」と誰かが歌いはじめれば、おそらく諸君も思わずその場に起立し、「アヴィニョンの橋でー、輪になって組んで」と、懐かしくも熱い合唱に加わるだろうと思う。

 歌詞はさらに続いて、ラストを「○○が通る、△△も通る」で締めくくるが、その○○や△△を埋めるコトバには、いろいろバリエーションがあって一定しないらしい。

 一番ふつうに流布しているのは、「コドモが通る、オトナも通る」である。つまり定番としては
   アヴィニョンの橋で、踊るよ踊るよ
   アヴィニョンの橋で、輪になって組んで
   コドモが通る、オトナも通る
ということになる。
アヴィニヨン
(アヴィニョン、サン・ベネゼ橋)

 バリエーション(または歌詞の2番☞3番☞4番)として
  ① お坊さんも通る、兵隊さんも通る
  ② 兵隊さんが通る、職工さんも通る
  ③ 酔っぱらいが通る、小僧さんも通る
  ④ 花屋さんが通る、八百屋さんも通る
などがあり、どんなバリエーションでも最後の最後にもう1回「アヴィニョンの橋で、踊るよ踊るよ。アヴィニョンの橋で、輪になって組んで」を繰り返して〆になる。

 どうしても「アヴィニョン」という地名を入れたくないヒトもいるらしく、その場合は「アヴィニョンの橋で」の部分を「橋の上で」に切り替える。チョイと母音を引き延ばして「はしのー、うえでー」と歌えば、何とか語呂が合わないことはない。

 その場合は、「何故そんなに無理をして『アヴィニョン』という地名を排斥しようとするのか」という疑問が伴うことになるが、そのへんは訳詞を書いたヒトに尋ねるしかない。

 モトモトのフランス語では
   Sur le pont d'Avignon
   L'on y passe, L'on y danse
と言ふことになる。カタカナ表記は恥ずかしいが、「シュルルポン ダヴィニョン」「ロンニパス ロンニダンス」であって、うぉ、これならフランス語を全く知らなくても、誰でも楽しく歌えそうだ。
中央駅
(夕暮れ8時過ぎ、マルセイユ・サントシャルル駅に帰ってきた)

 ローヌ河にかかるサン・ベネゼ橋は、1177年に着工、8年かけて完成。羊飼いのベネゼ少年にお告げがあって、「対岸のヴィルヌーブ・レザヴィニョンの町まで、橋をかけるのじゃ!!」と神様が命じたのだという。

 神様に「かけるのじゃ!!」とおっしゃられては、「ボクはそんな面倒なことはイヤです」とフテくされてはいられない。そんな反抗を試みて「天罰じゃ!!」とかいうことになったら元も子もないから、アヴィニョンの人々はすぐに動き出した。

 ところが、橋の基礎とすべき大きな岩を動かそうとしても、どうしてもビクともしない。町を代表する30人の大男が、顔を真っ赤にして踏ん張っても、真っ赤な顔が青紫に変わるほど力をふりしぼっても、ピクリとも動かない。

 そこで、やっぱりベネゼ少年の出番になる。「神よ、お助けください」と12世紀のフランス語でお祈りを唱えたベネゼ君、そのドデカイ岩に一人でチャレンジする。すると驚くじゃないか諸君、岩は神がかりになったベネゼ君に屈し、スポンジか何かのように軽々と空中に持ち上げられた。

 そのままベネゼ少年は岩をローヌ河に投げ込み、驚嘆と喝采の中、8年にわたる大工事が始まった。完成は1185年。平家の諸君が源氏の白旗に屈し、あわれ夕暮れの壇ノ浦が平家の赤旗に真っ赤に染まったころ、地球を西回りに半周した地中海のあたりでは、橋の完成を祝して「アヴィニョンの橋で、踊るよ踊るよ」の大合唱が沸き起こっていたのである。
夕暮れ
(国鉄マルセイユ駅前の夕暮れ風景)

 実際には橋の上が狭かったので、人々が「踊るよ」「踊るよ」と踊りまくったのは橋のたもとの河原あたりだったというが、そんなつまらないケチをつけなくてもいいじゃないか。全長900メートル、アーチ22、中世としてはマコトに堂々たる橋の完成である。

 お坊さんも兵隊さんも酔っぱらいも、花屋さんも八百屋さんも小僧さんも、今考えてもとっても楽しそう。神がかりのベネゼどんもきっと踊りの輪に加わって、英雄扱いに照れながら、流れる汗もそのままに、深夜まで踊りまくったんじゃないかね。

 こうして、おそらく橋のおかげでアヴィニョンの隆盛が始まり、1303年アナーニ事件、1309年にはボーサン飛んでくアヴィニョン。1400年まで、アヴィニョンの絶頂期が続くことになる。
晩飯
(晩飯は、マルセイユ旧港あたりのシーフード)

 しかし、さすがローヌは大河であって、しばしば大規模な氾濫が起きる。水の勢いで橋は何度も崩壊。この地方では戦火もたえることなく、やがて橋の修復工事も放棄されることになる。17世紀を最後に、「もう修復なんか面倒だ。ヤメちゃおう」という諦めが支配的になり、河の真ん中で途切れた姿のまま、とうとう現在にいたる。

 しかしそれがまた観光資源になって、アーチ4つと小さな礼拝堂しか残っていない橋を見物に、こうして日本のクマもノコノコやってくる。10年前の冬にも来たから、クマの来襲はこれが2回目である。

 前回は、「これからマルセイユでの大規模デモに向かう」という若者たちのイタズラで、いろいろイヤな目に遭った。ベネゼ橋やローヌ河に浮かぶ水鳥サンたちを暢気に眺めてホッコリしていたら、いきなり背後で若い女性の強烈な悲鳴が、あたりの空気をつんざいた。

 ビックリしてふりむくと、悲鳴はクルマの中からで、悲鳴のヌシと思われる女子学生が、「やーい、ひっかった&ひっかかった」という嬉しそうな笑顔を今井君に向けた。要するに、アジアのオジサマに軽くイタズラしてみただけのことだったのである。
セザンヌ風
(Hotel Dieuでは、毎日フルーツが無料で追加される。文句ありげな平べったいモモを中心に、セザンヌの静物画をマネてみた)

 10年前のクマ助には、まだ心の余裕が足りなかったので、何となく憤懣やるかたない気持ちでマルセイユに帰る電車に乗り込んだ。この電車が、途中の駅でデモ参加の若者たちに占拠され、おそらく無賃乗車の若者を満載した1等車に、激しいタイコの音が鳴り響いた。

 10年前のマルセイユは、治安の悪さで有名。ほうほうのていでホテルに帰り着くと、ホテルの周囲もデモ隊が占拠して、フェンスを蹴り倒すは、いたるところで車道が封鎖されるは、いやはや、タイヘンなアリサマであった。

 あれから10年。あの時の若者たちが18歳だったとすれば、彼ら彼女らもすでに30歳近い。アヴィニョンもマルセイユもすっかり治安を回復して、道ゆく人々の態度も物腰もマコトに穏やか。暴力的に主張を押し通そうとする人間は、ごく少数派になったようである。

 夕食は、マルセイユに帰ってから。旧港を囲むレストランのうちの1軒を無造作に選んだ。ネリーはリヨンに、アイリーンことイレーヌもニースに、とっくに帰ったころである。さすがのマルセイユも夜はずいぶん涼しくなった。「バカンスはそろそろ終わり」という寂しいムードが漂うようになってきた。

1E(Cd) Solti & Wien:WAGNER/DAS RHEINGOLD①
2E(Cd) Solti & Wien:WAGNER/DAS RHEINGOLD②
3E(Cd) Solti & Wien:WAGNER/DIE WALKÜRE④
4E(Cd) Solti & Wien:WAGNER/DIE WALKÜRE①
5E(Cd) Solti & Wien:WAGNER/DIE WALKÜRE②
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