Thu 140213 函館で熱弁をふるう 百年かけて札幌を超えよ 1997年の今井テキストに遭遇 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 140213 函館で熱弁をふるう 百年かけて札幌を超えよ 1997年の今井テキストに遭遇

 3月5日夕刻から、予定通り函館でお仕事。天候は最悪と言ってよくて、みぞれ混じりの雨がどんどん強くなっていく。
 北海道のヒトにとって、ちょっとやそっとの雪は全然苦にならない。北海道の雪はホントによく乾いているので、傘なんかささなくても全く濡れることがない。しかし冬の雨はどうしてもイヤ。傘が必要なだけじゃなくて、道路の雪や氷が融けてシャーベット状になり、靴の中にどんどん滲みてくる。
 こんな天候では、予定した受講生の半分ぐらいしか集まらないんじゃないか。会場は「ホテル法華クラブ」の結婚式場。何で「法華クラブ」なのかよく分からないが、函館の結婚式場として、法華クラブは非常に格が高いんだそうな。
 うにゃにゃ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。日蓮宗の寒修行みたいに、ウチワ太鼓でもたたきながら練り歩きますかね。「かんしゅぎょう」と入力して「看守業」と変換する我が戦友Mac君の図太さにもオドロキだが、英語の音読だって寒修行と同じように「みんなで一列になって街を練り歩きながら」という奥の手がないこともないのだ。
函館1
(函館でお仕事 1)

 ところで、サト助は函館の街が大好きなのである。数百年前、今井君が通っていた秋田市立土崎中学校の修学旅行は「北海道3泊4日」。青函トンネルのない時代だから、秋田から北海道へは青函連絡船を使わなければならなかった。
 秋田から列車で青森まで3時間半。青森から船に乗って函館まで4時間。8時間近くかかって、今井君たち中3のチューボー600名はほうほうのていで函館の港に着いた。諸君、当時の中学校では「1学年600名」ぐらい珍しくなかった。日本の黄金時代だったのである。
 それにしてもやっぱりMac君は天才だ。「生還トンネル」「生還連絡船」とは、なかなかいいところを突いている。ホントに生還した思いで青函連絡船を降りたチューボー600名は、函館港に待ち構えていた観光バスに12台にギューギューに押し込まれた。1クラス1台、1学年12クラスあったから12台。今井君の記憶はマコトに正確である。
 バスガイドさんのお名前まで記憶している。村瀬吉美さんという20歳になるかならぬかのオネーサマ。それでもチューボーたちからすると十分オバサマに見えたものだが、バスが動き出すなり彼女が歌ってくれたのが「函館ステップ」である。諸君、サト助恐るべし。その「函館ステップ」の曲と歌詞をチャンと記憶している。

(1)青い海 函館の 港あければ 出船の汽笛
    
呼ぶな カモメよ 名残を胸に

    切れた テープが すすり泣く
(2)
夢の街 函館の 街は楽しや 柳がなびく

    行こうか大門 戻ろか銀座

    招くネオンの 赤と青
函館2
(函館でお仕事 2)

 グーグル先生に尋ねてみたら、「作詞:高橋掬太郎 作曲:飯田三郎」となっていて、修学旅行で函館を訪れた中学生だけが聞くことが出来るんだそうな。
 バスガイドさん独特のハイなテンションで
「みんなも元気に歌ってみましょう」
「あれえ、元気ないですね。もっと大きな声で」
「聞こえませんよぉ」
と囃し立てられながら、14歳と15歳のチューボー50名は、ウンザリしながら「まねくネオンの赤と青」を歌った。「出船の汽笛」にしても「名残」にしても、もうすっかり死語になってしまった感がある。
 その後、わが土崎中学校3年生600名は、大沼公園のホテルに1泊。洞爺湖と支笏湖、昭和新山と羊蹄山を見ながら札幌に向かい、定山渓温泉に1泊。再び函館に戻って、3泊目は湯の川温泉。函館山にも登って、いやはや、長い道南の旅であった。
 そういう思い出があって、今でも函館は大好きな街である。それから7~8年後、学部の友人たちと真冬の北海道を一周した。その旅の最終日も函館だったわけだが、ホンの7年か8年のうちに、何だか函館がひどく衰退してしまったように感じたものだった。
 2014年現在、函館の人口は30万を切って、約27万。札幌市が約195万。人口規模で9分の1程度になってしまっては、もはや函館が札幌とライバル関係にあるとは言えないが、しかし諸君、1935年までは函館の人口が北海道内トップ。小樽が2位で、札幌は3位に過ぎなかった。
刺身
(函館の大祝勝会にて)

 日本の近代史の幕開けに、函館が果たした役割は大きい。20世紀の後半から21世紀にかけて、何だかどんどん縮小してしまって、あんまり元気も感じられない。歴史の中に埋没して、街全体がすでに文化遺産の雰囲気である。「函館との合併話を、近隣の市町村に断わられた」と地元のヒトが自嘲気味に言うほどである。
 今井君としては、函館にもっともっと頑張ってほしいのだ。100年かけて札幌に追い抜かれ、これほどの大差をつけられたとしても、それならば逆にもう100年かければ、札幌に追いつき追い抜くことだって可能なはずだ。
 何かちょっとしたキッカケで、一方が急激に伸び、他方が何となくションボリしてしまう。よくあることだ。しかし、明治大正まではライバルとして胸を張り、意気軒昂だったはずなのに、今や函館の若いヒトビトにかつてのライバル関係を指摘しても、ポカンと口を開けて「何のこと?」と不思議そうな顔をするばかりである。
 それでも今井君は函館の高校生諸君に、「100年かければ追いつき追い越せるはずだ」と語りかけることから始めたのである。出席者は140名。10分も熱く語れば、爆笑が大爆笑を呼び、やがて「よおし、100年かけて追いついてみせようじゃないか」「自分たちの世代から、函館はもう一度ムックリと身を起こそうじゃないか」という熱い反応が返ってくるようになった。
代ゼミ
(1997年の代ゼミ春期講習テキスト「総合英語 今井宏編」。詳細は、記事を読んでくれたまえ)

 こうして今夜もまたウルトラつきの大熱演になった。終了後、函館の名店「イカ清」にて大祝勝会。海が連日の大荒れで漁に出ることが出来ず、函館名物「活イカ」は品切れ。「活イカ」と書いて「カツイカ」と読むらしいが、例の透き通って7色に輝くイカを堪能することは出来なかった。
 しかし、「活イカの代わり」と言っては何だが、今井君の目の前にたいへん意外な嬉しいモノが持ち出された。
「今日は都合がつかずに来られなかったんですが、ある函館の先生が、むかしむかし今井先生の授業を受けてました」
というのである。出てきたのは、1997年春期講習テキスト「総合英語 今井宏編」。駿台から代ゼミに移籍した時の、最初のテキストなのであった。
テキスト
(テキストには、当時60回もの音読に励んだ後が残っていた)

 当時の代ゼミの英語単科ゼミは「総合英語」と「基礎強化英語」のみ。今みたいに「ウルトラ」に「スーパー」、「ミラクル」に「伝説」、そういう派手なコトバがパンフレットに乱舞することはなかった。
 講師たちは「基礎強化」と「総合」の2つの単科をサテラインで全国中継してもらうのが夢。移籍直後から両方ともサテラインにしてもらった今井君に、他の講師たちから異様なほど厳しい視線が向けられたのは、まさに致し方のないことであった。
 函館の先生は「移籍直後の今井君の春期講習を受けた」というのだから、相当な眼力の持ち主。当時から今井君は「音読」「音読」「ひたすら音読」とうるさかったから、彼のテキストにも「正」の文字がズラリと並んでいる。音読回数を記録したものだろうけれども、このページは60回も音読したらしい。「正」の文字が12個ギッシリ書き込まれ、当時の熱心さを物語っていた。

1E(Cd) Karajan:BACH/MATTHÄUS PASSION①
2E(Cd) Karajan:BACH/MATTHÄUS PASSION②
3E(Cd) Karajan:BACH/MATTHÄUS PASSION③
4E(Cd) Karajan:BACH/MATTHÄUS PASSION①
5E(Cd) Karajan:BACH/MATTHÄUS PASSION②
total m65 y220 d13140