Fri 140110 うどん県への旅 志度合戦と志度商 艶艶・まんでがん うどん道5段な人々 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 140110 うどん県への旅 志度合戦と志度商 艶艶・まんでがん うどん道5段な人々

 2月1日の今井君は、お昼近くまで徳島のホテルで過ごし、お昼すぎの電車で徳島から高松に移動した。徳島から高松へは、「高徳線」の特急「うずしお」で1時間半ほどである。
 徳島駅前で、何だか知らんがデカい声で怒鳴り散らしているコワーいオジサンを発見。そこいら中の高校生を蹴散らし、穏やかな四国のオバサマたちを怒鳴りつけて、「オラオラオラ、どかんか、このボケ!!」と、駅前広場を真っすぐに突き進んでいった。
 駅に入った後も、このオジサンの恐ろしい剣幕はおさまらない。窓口のオネーサマに「オラオラオラ、はよぉせんかい。電車が出てしまうやろがぁ!!」と、今井君が聞いていただけで3回は繰り返した。
 うにゃ、こういう前近代的オジサンを目撃したのは、ホントに久しぶりである。新宿に渋谷に六本木、コワいことでは日本有数の街を連日歩き回っているが、これほど前近代的なのはさすがに見かけない。
 同様に、サンパウロにブエノスアイレス、ブダペストにマルセイユ、コワい人が多いというウワサでは世界有数の街も闊歩したけれども、さすがに「オラオラオラ」とか「…せんかい、このボケナス」みたいな、マンガか映画そのままのセリフに間近で出会うとは、サト助としても驚くばかりであった。
まんでがんうどん1
(うどん県高松「艶艶」の「まんでがんうどん」。ホントにおいしゅーございました)

 さて、これほど人生経験が長くても、
① 高徳線に乗ったこと
② 2両編成の特急に乗ったこと
この2点は人生初体験であった。
 四国の鉄道のネーミングは、マコトに素直なものが多い。伊予と讃岐を結ぶから予讃線(よさんせん)。土佐と讃岐を結ぶから土讃線(どさんせん)。高松と徳島を結ぶから高徳線。線名を見ただけで、どこからどこに行くのかハッキリ分かるようになっている。
 しかし今井君みたいなヘソ曲がりになると、
「あれれ、予讃線に土讃線と同じように、阿波と讃岐で阿讃線(あさんせん)のほうが首尾一貫してるんじゃないの?」
「高徳線にした場合、『高』が示すのが高松か高知か分からなくなるんじゃないの? その意味では、松徳線ないし徳松線のほうがいいんじゃないの」
と、余計なことを考えるのである。
 おお、そうか。その時サト助の頭に、「松徳線にしちゃうと、今度はその『松』が高松なのか松山なのか分かんなくなっちゃうわけか」と解答がハッキリひらめいた。しかしそれでもやっぱり、「阿讃線」がボツになった理由が分からない。
徳島
(徳島を出発する)

 コワい前近代オジサンに驚き、高徳線のネーミングに納得のいかない思いを抱え、特急「うずしお」の懐かしいディーゼルエンジンの音にウットリしながら、サト助は徳島駅を後にした。そう言えば、むかしナショナル洗濯機に「うず潮」というブランドがありましたな。
 徳島→香川県境で、右側の車窓に瀬戸内海もチラチラ見えて、こういう暢気な出張も悪くない。この日の四国は最高気温20℃に近づいて季節外れの暖かさ。瀬戸内海は、それこそ「春の海ひねもすのたりのたりかな」の風情であった。
 讃岐に入ってしばらくすると、「志度」という駅に停車する。今井君の記憶力にはマコトに恐るべきものがあって、列車が志度に停車しただけで、以下の2点をしっかり思い出してしまうのである。
① 「平家物語」に「志度合戦」というのがあった。マイナーに思えるかもしれないが、平家の運命が決定的に定まる悲しい合戦である。
② 高校野球の「志度商」は知る人ぞ知る名門。1981年には確か甲子園ベスト8まで進んだはずだ。
うずしお
(ディーゼル特急「うずしお」。驚きの2両編成だった)

 まず①であるが、「志度合戦」とは「屋島の合戦」直後の小競り合いである。「扇の的」とか「弓流し」とか「佐藤継信vs能登守教経」とか、マコトに華やかで哀しい名場面が続いた後、義経の奇襲に敗れた平家船団は、やがて志度の浦に流れ着く。以下、今井君なりに現代語にしてみると、以下の通りである。
「夜が明けると、平家の船団は讃岐国・志度の浦へ退いていきました。義経は80騎で志度に追手をおくりました。平家側は「源氏の追手はあまり多くない。取り囲んでやっつけよう」と考え、1000人ほどが船から浜にあがり、源氏を討ち取ってしまおうと進軍しました。
 その時、屋島に残っていた源氏200騎が、遅ればせながら志度に駆けつけました。平家側はこれを見て、「あわわ、源氏の大軍があとから押し寄せてくる。何十万騎もうようよいる。これでは取り囲まれてしまう」と、みんなが船に戻ってしまいました。
 もうどうしようもありません。平家の船団は潮に流され、風に任せて、どこを目指すともなく、ゆらゆら揺れて行きました。四国は源義経が占領。九州は源範頼が占領。死んで49日を迎える前の哀しい人々のようなアリサマ。行き場もなくさまようばかりでした」
 こうして平家は現下関市の西端・彦島に孤立。やがて壇ノ浦の悲劇に至る。なお、原文も読みたい人のために、本日の記事のラストに該当箇所の本文を掲載しておくことにする。
志度
(高徳線「志度」に到着)

 ②の「志度商」は何しろ1981年、すでに35年近い昔のことだ。あとで高松の加盟校の先生方に「どうしてそんなこと記憶してるんですか?」とビックリされたが、1981年夏の甲子園といえば、エース工藤の名古屋電気と、エース金村の報徳学園が、ベスト4で激突した年のことである。
 西武→巨人で大活躍したあの工藤公康に抑え込まれ、志度商はベスト8で姿を消した。しかし「いかにも四国のチーム」というソツのない試合運び、早稲田スタイルの古くさいユニフォーム、軸足に左足を絡めて投げるエース白井の投球フォーム、今井君の脳裏にはみんなしっかり刻み込まれている。
 徳島から高松に至る1時間半の間に、以上のようなことを考え、思い出し、頭をひねって、サト助は何だかヘトヘトである。ヘトヘトなら、お腹に何か詰め込んだほうがよくて、場所が讃岐の国なら、詰め込むものは意地でも「うどん」しかない。
 ただし、こんなヘトヘトの時に「地元の人が列を作る店」なんてのを無理して選ぶと、ヘトヘト感はもっと高まってヘトヘトヘトヘトになるのがオチである。疲れたときは、地元の人に何といわれようと、手近にある手頃なお店。サト助は、駅ビル2階レストラン街「艶艶」に入った。
まんでがんうどん2
(もう1度、まんでがんうどん)

 もちろん、地元の人たちがニタニタ笑って「そんな店、観光客しか行かないよ」「邪道だな」「違うんだよな」とおっしゃることは分かっている。しかし、観光客向けの店だって、ヘトヘト感を改善するには十分に旨い。というか、もし「観光客向けの店がマズい」ということになれば、「うどん県」の名折れなのである。
 香川には「うどん道」みたいな世界があるようで、「うどん、かくあるべし」「うどんはこういうもの、それ以外は邪道」という人々も存在するらしい。でも、「うどん道」でも「タコ焼き道」でも「お好み焼き道」でも、食べ物についてあんまりガンコになりすぎると、せっかくの旨いもんが堅苦しくなるだけである。旨いものは旨い、サトちゃんはそれで十分だ。
 注文したのは、「まんでがんうどん」。「まんでがん」とは讃岐のコトバで「全部」という意味、うどんの具を全部1杯のドンブリに詰め込んである。天ぷら、牛肉、ワカメ、タマゴ、油揚げ、かまぼこ、タップリのネギ。唐辛子もタップリ添えられる。
 こんなに具が充実していると、主人役の麺が霞んでしまうし、そうなるとまたまた「うどん道5段」みたいな達人がニヤニヤしそうだが、いやはや、ド素人・今井君は「旨い。これならもう1杯いけますね」というマコトに爽快な気分で汗を拭ったものだった。


なお、前掲「平家物語・志度合戦」本文は以下の通り(段落分け、筆者)。
 明けければ、平家は当国志度の浦へ漕ぎ退く。判官八十余騎、志度へ追う手ぞかかられける。平家これを見て、「源氏は小勢なりけるぞ。中に捕り籠めて討てや」とて、千余人渚に上がり、源氏を中に捕り籠めて、我討つ捕らんとぞ進みける。
 さるほどに屋島に残り留まつたる二百余騎の勢ども、遅ればせに馳せ来たる。平家これを見て、「あはや源氏の大勢の続いたるは。何十万騎があるらむ、捕り籠められては敵ふべからず」とて引き退き、皆船にぞ乗りにける。
 潮に引かれ、風に任せて、いづちを指すともなく、揺られ行くこそ悲しけれ。四国をば九郎大夫の判官攻め落とされぬ。九国へは入れられず、ただ中有の衆生とぞ見えし。

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2E(Cd) Marvin Gaye:WHAT’S GOING ON
3E(Cd) Santana:EVOLUTION
4E(Cd) Solti & Wien:MOZART/GROßE MESSE
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