Thu 131128 第2002回 金ダケと防砂林と栗田定之丞 秋田遺産クマ蔵 荻窪でお仕事
12月18日、「タラノコの煎りあげ」を賞味した段階で、もう秋田でやるべきことのほとんどは完了。お店のオバサマたちも、地元民しか知らない「タラノコの煎りあげ」をマコトに豪快に平らげたクマ蔵を眺めて、楽しそうに笑っていらっしゃる。
「冬眠中の大っきなクマがこんな店に現れて、おやおや、さぞかしお腹をすかしていたんだろう」
ま、その類いの笑顔であるが、クマ本人としてもこういう笑顔で迎えられるのは嬉しいものである。
それでもまだMustな仕事がクマさんには残されていて、
① ホンモノのきりたんぽ鍋を食す
② ハタハタを焼いてもらってカブりつく
の2点である。この2つを外しでもしたら、「あなたはホントに秋田に行ってきたんですか?」と、クマ仲間に責められかねない。
そこでまず①であるが、秋田の料理店で「きりたんぽ鍋!!」と注文すれば、オバサマの店員さんが1人必ず付きっきりで、野菜と比内地鶏を煮るところから、小鉢に盛りつけるところまで、全て面倒を見てくれる。
![きりたんぽ鍋](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/af/af/j/o0400030012792247093.jpg?caw=800)
(秋田・川反「津ねや」のきりたんぽ鍋)
野菜はゴボウ・ネギ・セリ、キノコは舞茸である。うーん、ホントは今井君は「金ダケ」がいいのだが、今や秋田のヒトでもよほどベテランの秋田人じゃないと、「金ダケ」の存在さえご存じない。確か昭和50年代の中頃、秋田の八百屋さんから「金ダケ」というものが忽然と姿を消したのである。
もっとも、「忽然と姿を消した」という表現には、多くの場合ウソまたは錯誤が混じっている。実際には5年も10年も経過して「アイツ、最近見かけないな」と誰かが言い出して、「そういえばそうだ」と同感した別の誰かが「忽然と消えた」と文章にするのである。
「金ダケ」というキノコの場合も、「そういえば最近見かけないな」と気づいたのが昭和50年代の後半。それまでは「きりたんぽ鍋と言えば、何と言っても金ダケ」だったのが、いつの間にか舞茸が主流になっていた。
金ダケは、秋田県の日本海岸の松林でとれる金色をしたキノコ。マッシュルームのような大きさと食感が特徴で、松林の中でちょっと砂が盛り上がっている場所を発見したら、手のひらで丁寧に砂をナデナデしてあげると、カワイイ金ダケ君が姿を現す。
![はたはた](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/ec/33/j/o0400030012792247606.jpg?caw=800)
(ハタハタ君たちも焼けてきた)
日本海岸には延々と松林が続くのであるが、ここには江戸時代の偉人・栗田定之丞の逸話が残っている。鳥取砂丘ほどの規模ではないにせよ、山形から秋田の海岸もどこまでも砂浜が続いて、北西の季節風に乗ってこの砂が飛散し、農作物に被害をもたらす。栗田どんは、海岸に沿って松を植えることで砂の被害を防ごうと考えた。
いわゆる「防砂林」であるが、諸君、砂に強い松も、そうカンタンに根付いてはくれない。何度やっても失敗して途方に暮れた栗田どんが、ある日トボトボ海岸を歩いていると、捨てられた1足のワラジの下から、松の芽が力強く伸びているではないか。
「これだ!!」と気づいた栗田どん、「ムシロで覆いを作り、幼い松の芽くんたちを守ってあげればいいんだ」と、早速ムシロ作戦を展開。こうして秋田の海岸には延々と力強い防砂林が完成し、→今に至る。金ダケ君たちは、この防砂林のタマモノだったのである。
あんなに美味しかった金ダケ君が、なぜピラピラした舞茸なんかに取って代わられたのか、正確な理由は分からない。人工栽培による大量生産が可能な(Mac君はこの時「大量凄惨」という恐るべき変換をやってのけたが)舞茸に比較して、優しく砂をナデナデしてあげなければならない金ダケ君は、やはり面倒だったんですかね。
![肉の千田](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/f1/3b/j/o0400030012792248011.jpg?caw=800)
というふうに、むかしの金ダケの話をしてみると、お店のオバサマたちは金ダケのことを記憶しているベテラン秋田人ぞろいであって、「ああ、そう言えば昔は金ダケでしたね」と懐かしそうな笑顔で答えてくれた。
ただし、今や「絶滅危惧種」となった秋田弁を正確に使えるヒトは少なくて、これほどのベテラン・オバサマ連でも、もはや正調・秋田弁でない。この日の6時間の秋田滞在で、正調・秋田弁を聞いたのは1度だけ。秋田市民市場でハタハタを売っていたオジサマのコトバだけであった。
こうなると、いまや正調秋田弁を正しく話せるのは、この今井君ただ一人かもしれない。秋田を離れて数百年、その後かぎりなく東京言葉に影響された秋田弁の弱体化を一切知らず、数百年前にクマどんの身体にしみ込んだ秋田弁は、まさに純粋な形で保存された。
まさに国宝級。世界遺産の候補にしたっていいぐらいだ。それが言いすぎなら、「県宝」とか「県無形文化財」とか「秋田遺産」とか、今井クマ蔵の純粋&正調秋田弁は、そのぐらいの丁重な扱いを受けていいんじゃないか。
![荻窪1](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/e5/62/j/o0400030012792248456.jpg?caw=800)
(翌日は杉並区荻窪でお仕事だった 1)
そういうクダランことを考えながら、きりたんぽ鍋をつつき、ハタハタにかぶりついて、やがて帰りの時間が近づいた。まさに忘年会シーズンの真っただ中であって、この店の2階でも30名近い団体の忘年会が始まった。
昔の秋田の忘年会と言えば、突然誰かがアカペラで歌いだし、みんなが両手を揉みながら手拍子を打つ、悪夢のような数時間であったが、今やそれも変質したらしい。エラい順に礼儀正しく挨拶し、全員から激しい拍手が湧き上がる。何だか一党独裁の国の党大会のような、むなしい忘年会の気配を聞きながら、冬の秋田を後にすることにした。
![荻窪2](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/52/cf/j/o0400030012792249277.jpg?caw=800)
(翌日は杉並区荻窪でお仕事だった 2)
東京に戻って、翌日からまたすぐにお仕事が再開した。12月19日は、杉並区荻窪で19時からお仕事。長く続いた「秋冬シリーズ」も最終盤を迎え、この日の荻窪と、20日の立川で締めくくりになる。
荻窪には、夜から強くなった冷たい雨の中、約90名の生徒が集まった。天気予報では「夜には上がってくるでしょう」と言っていた雨だが、「上がってくる」も何も、夜になって強烈な雨にかわり、タクシーの運転手さんも「よく降りますな」と驚くような吹き降りになった。
それでも、生徒たちの盛り上がりにはかなわない。秋冬シーズンは、終盤になって今井君の迫力が増すばかり。「爆走機関車を止めることはもう誰にもできない」という激しさで、何と言ってもその継続率の高さに、今や自分でも凄みを感じるほどなのである。
1E(Cd) Schüchter:ROSSINI/DER BARBIER VON SEVILLA
2E(Cd) Cohen:L’HOMME ARMÉ
3E(Cd) Vellard:DUFAY/MISSA ECCE ANCILLA DOMINI
4E(Cd) Oortmerssen:HISTORICAL ORGAN AT THE WAALSE KERK IN AMSTERDAM
5E(Cd) Philip Cave:PHILIPPE ROGIER/MAGNIFICAT
total m141 y2170 d12365
「冬眠中の大っきなクマがこんな店に現れて、おやおや、さぞかしお腹をすかしていたんだろう」
ま、その類いの笑顔であるが、クマ本人としてもこういう笑顔で迎えられるのは嬉しいものである。
それでもまだMustな仕事がクマさんには残されていて、
① ホンモノのきりたんぽ鍋を食す
② ハタハタを焼いてもらってカブりつく
の2点である。この2つを外しでもしたら、「あなたはホントに秋田に行ってきたんですか?」と、クマ仲間に責められかねない。
そこでまず①であるが、秋田の料理店で「きりたんぽ鍋!!」と注文すれば、オバサマの店員さんが1人必ず付きっきりで、野菜と比内地鶏を煮るところから、小鉢に盛りつけるところまで、全て面倒を見てくれる。
![きりたんぽ鍋](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/af/af/j/o0400030012792247093.jpg?caw=800)
(秋田・川反「津ねや」のきりたんぽ鍋)
野菜はゴボウ・ネギ・セリ、キノコは舞茸である。うーん、ホントは今井君は「金ダケ」がいいのだが、今や秋田のヒトでもよほどベテランの秋田人じゃないと、「金ダケ」の存在さえご存じない。確か昭和50年代の中頃、秋田の八百屋さんから「金ダケ」というものが忽然と姿を消したのである。
もっとも、「忽然と姿を消した」という表現には、多くの場合ウソまたは錯誤が混じっている。実際には5年も10年も経過して「アイツ、最近見かけないな」と誰かが言い出して、「そういえばそうだ」と同感した別の誰かが「忽然と消えた」と文章にするのである。
「金ダケ」というキノコの場合も、「そういえば最近見かけないな」と気づいたのが昭和50年代の後半。それまでは「きりたんぽ鍋と言えば、何と言っても金ダケ」だったのが、いつの間にか舞茸が主流になっていた。
金ダケは、秋田県の日本海岸の松林でとれる金色をしたキノコ。マッシュルームのような大きさと食感が特徴で、松林の中でちょっと砂が盛り上がっている場所を発見したら、手のひらで丁寧に砂をナデナデしてあげると、カワイイ金ダケ君が姿を現す。
![はたはた](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/ec/33/j/o0400030012792247606.jpg?caw=800)
(ハタハタ君たちも焼けてきた)
日本海岸には延々と松林が続くのであるが、ここには江戸時代の偉人・栗田定之丞の逸話が残っている。鳥取砂丘ほどの規模ではないにせよ、山形から秋田の海岸もどこまでも砂浜が続いて、北西の季節風に乗ってこの砂が飛散し、農作物に被害をもたらす。栗田どんは、海岸に沿って松を植えることで砂の被害を防ごうと考えた。
いわゆる「防砂林」であるが、諸君、砂に強い松も、そうカンタンに根付いてはくれない。何度やっても失敗して途方に暮れた栗田どんが、ある日トボトボ海岸を歩いていると、捨てられた1足のワラジの下から、松の芽が力強く伸びているではないか。
「これだ!!」と気づいた栗田どん、「ムシロで覆いを作り、幼い松の芽くんたちを守ってあげればいいんだ」と、早速ムシロ作戦を展開。こうして秋田の海岸には延々と力強い防砂林が完成し、→今に至る。金ダケ君たちは、この防砂林のタマモノだったのである。
あんなに美味しかった金ダケ君が、なぜピラピラした舞茸なんかに取って代わられたのか、正確な理由は分からない。人工栽培による大量生産が可能な(Mac君はこの時「大量凄惨」という恐るべき変換をやってのけたが)舞茸に比較して、優しく砂をナデナデしてあげなければならない金ダケ君は、やはり面倒だったんですかね。
![肉の千田](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/f1/3b/j/o0400030012792248011.jpg?caw=800)
(秋田市土崎「肉の千田」。この店は昭和のまま健在だった。こういうお店で鶏モツを買ってきて、きりたんぽ鍋に入れるのもいい。「津ねや」でもモツを入れた)
というふうに、むかしの金ダケの話をしてみると、お店のオバサマたちは金ダケのことを記憶しているベテラン秋田人ぞろいであって、「ああ、そう言えば昔は金ダケでしたね」と懐かしそうな笑顔で答えてくれた。
ただし、今や「絶滅危惧種」となった秋田弁を正確に使えるヒトは少なくて、これほどのベテラン・オバサマ連でも、もはや正調・秋田弁でない。この日の6時間の秋田滞在で、正調・秋田弁を聞いたのは1度だけ。秋田市民市場でハタハタを売っていたオジサマのコトバだけであった。
こうなると、いまや正調秋田弁を正しく話せるのは、この今井君ただ一人かもしれない。秋田を離れて数百年、その後かぎりなく東京言葉に影響された秋田弁の弱体化を一切知らず、数百年前にクマどんの身体にしみ込んだ秋田弁は、まさに純粋な形で保存された。
まさに国宝級。世界遺産の候補にしたっていいぐらいだ。それが言いすぎなら、「県宝」とか「県無形文化財」とか「秋田遺産」とか、今井クマ蔵の純粋&正調秋田弁は、そのぐらいの丁重な扱いを受けていいんじゃないか。
![荻窪1](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/e5/62/j/o0400030012792248456.jpg?caw=800)
(翌日は杉並区荻窪でお仕事だった 1)
そういうクダランことを考えながら、きりたんぽ鍋をつつき、ハタハタにかぶりついて、やがて帰りの時間が近づいた。まさに忘年会シーズンの真っただ中であって、この店の2階でも30名近い団体の忘年会が始まった。
昔の秋田の忘年会と言えば、突然誰かがアカペラで歌いだし、みんなが両手を揉みながら手拍子を打つ、悪夢のような数時間であったが、今やそれも変質したらしい。エラい順に礼儀正しく挨拶し、全員から激しい拍手が湧き上がる。何だか一党独裁の国の党大会のような、むなしい忘年会の気配を聞きながら、冬の秋田を後にすることにした。
![荻窪2](https://stat.ameba.jp/user_images/20131225/17/imai-hiroshi/52/cf/j/o0400030012792249277.jpg?caw=800)
(翌日は杉並区荻窪でお仕事だった 2)
東京に戻って、翌日からまたすぐにお仕事が再開した。12月19日は、杉並区荻窪で19時からお仕事。長く続いた「秋冬シリーズ」も最終盤を迎え、この日の荻窪と、20日の立川で締めくくりになる。
荻窪には、夜から強くなった冷たい雨の中、約90名の生徒が集まった。天気予報では「夜には上がってくるでしょう」と言っていた雨だが、「上がってくる」も何も、夜になって強烈な雨にかわり、タクシーの運転手さんも「よく降りますな」と驚くような吹き降りになった。
それでも、生徒たちの盛り上がりにはかなわない。秋冬シーズンは、終盤になって今井君の迫力が増すばかり。「爆走機関車を止めることはもう誰にもできない」という激しさで、何と言ってもその継続率の高さに、今や自分でも凄みを感じるほどなのである。
1E(Cd) Schüchter:ROSSINI/DER BARBIER VON SEVILLA
2E(Cd) Cohen:L’HOMME ARMÉ
3E(Cd) Vellard:DUFAY/MISSA ECCE ANCILLA DOMINI
4E(Cd) Oortmerssen:HISTORICAL ORGAN AT THE WAALSE KERK IN AMSTERDAM
5E(Cd) Philip Cave:PHILIPPE ROGIER/MAGNIFICAT
total m141 y2170 d12365