Wed 130724 サルヒコ伝説といっても、大したことはない ダジャグッココギ・サルヒコの活躍 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 130724 サルヒコ伝説といっても、大したことはない ダジャグッココギ・サルヒコの活躍

 これだけ長々と引っ張っておいてマコトにも申し訳ないが、ごたいそうに「サルヒコ伝説」と言っても、別にその辺にたくさんいる腕白少年の思い出に過ぎない。本名・佐藤晴彦。今井君より4つ年上の姉の同級生であった。
 晴彦なのに何でサルヒコなのかは、そりゃ諸君、小学生たちが友達にニックネームをつけるときに、そんな難しいルールだの法則性があるはずはない。ハルヒコの「ハ」の字を「サ」に代えただけのことであって、それ以上コムズカシイ故事来歴なんか、求める方がムリというものである。
 しかし友達に「ハ」の字を「サ」に代えさせ、その変換をクラスや学校全体に認めさせるだけの迫力が、彼にあったことは間違いない。さもなければ、誰かがハルヒコを1回だけ「サルヒコ!!」とフザケて呼んだだけで、その呼び方が定着するはずはないのである。
 「ハル」から「サル」への変換には、もちろん最初のうち一種の侮蔑も含まれていたに違いない。だって「サル」だ。ヒトが他人を「サル」と呼ぶとき、そこに何らかの侮蔑の気持ちが含まれるのを、否定しようといくら試みてもムダである。
 10年ほど前の芸人に「おさる」というのがいて、やがて「サル」に侮蔑を感じたのか「モンキッキー」に改名した。その後また「おさる」に戻したようであるが、豊臣秀吉だって、初めは「サル」だった。
 信長が彼をサルと呼び、織田の家臣がそろって彼をサルと侮蔑をこめて呼びながら、やがてそのサルに大きな信頼を寄せ、信頼はあるところでは信仰に近い尊崇の念にかわった。
 信頼も信仰も尊崇もありえないライバル関係の中で、明智光秀も柴田勝家も「サルめが!!」と罵声を浴びせた。つまりサルとは、侮蔑から信頼へ、信頼から崇拝と畏敬と恐怖へ、感情が大きく波打って変化する呼び名なのである。
アンモナイト1
(アンモナイト的マキネコ・ナデシコ 1)

 古事記の中でのサルタヒコの大活躍は、われわれ日本人のルーツに、サルへの尊崇の念があったことを暗示している。猿田彦という国神がいた。天から降りてきたニニギノミコトは彼を発見し、「あれれ、ずいぶん鼻が長くて、ずいぶん背が高くて、お目目が真っ赤な神様がいるぞ」とビックリしてみせる。
 ま、諸君も日本に住む人々だ、チャンと古事記を読んでくれたまえ。猿田彦は天狗の原型で、伊勢と常陸と出羽の国に「猿田彦神社」があり、「猿田」という名字のヒトも多い。
 天から降りてきたニニギノミコトの道案内をしたので、旅の神としても祭られ、道祖神とも関連があるとされ、同一視されることもある。「奥の細道」冒頭部で有名。「そぞろ神の物につきて心を狂わせ、道祖神の招きにあいて取るもの手につかず」というあの道祖神である。
 というわけで、サルヒコをサルタヒコと読み替えただけで、話はたいへんなことになっていく。しかしやっぱりそこはチャンと古事記と日本書紀を読み、日本の民俗学をキチンと勉強してもらわなければいけないので、無学な今井君なんかがブログの場で自説を展開したりすれば「無意味なことをダラダラ書いていた」というキビシイ批判をいただくだけである。
アンモナイト2
(アンモナイト的マキネコ・ナデシコ 2)

 ホンモノのサルヒコはそんな難しい存在でも何でもなくて、その辺にいくらでも転がっていそうな小学生にすぎない。ただし、たいへんなダジャグッココギであることは間違いなくて、運動神経は抜群。鉄棒でも競走でも、跳び箱でもバスケでも、何をやっても誰にも負けることがない。
 しかも彼以上に目立つ人間が台頭すれば、何が何でもこれを打ち破って一番になろうと全力を尽くす。小学校のマラソン大会も、もちろん他を大きく引き離して、カンペキに優勝することが予想されていた。
 ただ、サルヒコの後ろから追いすがった男子が一人いて、彼の名前は記憶していないが「勉強はスゴくできるけど、身体が弱くてスポーツは全然ダメ」という超優等生。その彼がどういうわけかマラソン大会でサルヒコに追いすがり、ほぼ同時に競技場に戻ってきた。応援団の熱狂は想像にかたくないだろう。
 サルヒコは6年生。今井君は2年生。応援団は、半分が予想通りのサルヒコの優勝を信じ、残り半分は超優等生の奇跡の勝利を期待して熱狂した。サクラの花が満開の、北国の5月上旬の出来事であった。
 結果は、もちろんサルヒコの優勝。しかし、奇跡の2位になった超優等生に男子も女子、先生方も熱狂。サルヒコは余裕で優勝しながら、おそらく生まれて初めての憎まれ役を経験したのである。
2ひき
(2匹でなかよく)

 その後サルヒコは中学校の野球部で活躍。中1から高3まで「1番センター」という憧れのポジションを一度も譲らなかった。勉強はあまり得意ではなかったが、この種のヒーローにとって、チマチマした勉強なんか、おそらく別にどうでもいいのである。
 そういうヒーロー男子だから、そのまたパパも地元で有名な野球人間。正確にはどういうパパなのか分からないが、地元のコドモたちが野球チームを作れば、必ず「サルヒコのパパに監督をお願いしよう」ということになった。
 今井君も4年生の時に「地元チーム」に入ることになった。ポジションは8番レフト。いやはや、「秋田の少年チームの8番レフト」じゃ、あんまり威張れませんな。
しっぽ
(今日もシマシマシッポがカワイイ)

 それでも何故か「サルヒコのパパにお願いしにいこう」と衆議一決。ある夏の夕方、セミたちが激しく鳴いている中で「お願いします!!」とみんなで大声をあげていたのを今も記憶している。
 サルヒコのパパは、サングラスをかけたコワい感じのオジサン。今考えてみると40歳前後だったかと思うが、実に熱心に我々に付き合ってくれた。せっかくチームを作ったからには、どうしても地元の大会で優勝ぐらいしたい。夏休みの夕方5時から暗くなるまで、ノックに守備練習に、サルヒコのパパを我々が独占した。
 「今井は、6番セカンド」。これがサルヒコのパパの決定である。今井君はケッコー気に入られていたのである。バントがうまい。守備も堅実。ただし思い切りが悪い。そりゃ6番セカンドにもってこいかも知れない。その采配がおそらくピタリとあたって、ボクらは予定通り地元チャンピオンになった。
パパ
(地元の大会で優勝。右下が優等生・今井君、優勝旗を持つのは三島君。サングラスのコワそうなヒトがサルヒコのパパ)

 ちょうどそのころ、当のサルヒコは甲子園に登場していた。今は「秋田中央」と校名を変更してしまったが、当時は秋田市立高校。1968年にはベスト8に進出した新鋭校であった。
 1968年、1回戦は楽勝で、秋田市立7-2市神港。2回戦も同じように楽勝、秋田市立7-2智弁学園。強豪を2つ撃破して、準々決勝が秋田市立1-5静岡商。この時の静岡商に後のジャイアンツのエース新浦がいた。
 サルヒコが1番センターで甲子園に出場したのは、1972年のことである。当時のエースピッチャーが船木。監督としてTDKを率い、2006年の都市対抗野球で全国優勝を果たしたのがあの時の船木だったはずだ。間違っていたらスンマセン。
 サルヒコの活躍は、コドモ時代の今井君の目に熱く焼きついた。期待通り2塁打を放って、塁上で躍動する彼の姿がうれしかった。小6のマラソン大会で思い切りダジャグッココギをやって、あの超優等生クンを見る見る引き離した頼もしい姿が、全く同じようにテレビ画面で躍っていたのである(明日に続きます)。

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