Mon 130603 とにかく楽しく、とにかく旨い(アメリカ東海岸お花見旅・番外編2) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 130603 とにかく楽しく、とにかく旨い(アメリカ東海岸お花見旅・番外編2)

 しばらくアメリカ東海岸の旅行記をお休みして、「予備校講師の身辺雑記」に徹していた。すると諸君、時の経過はマコトに速いもので、あっという間に1週間が経過。「あれれ、前回はどこまで書いたっけ?」とブログ一覧を見て、旅行記から7日も遠ざかっていたことに気づき、唖然というより、むしろ憮然とするのである。
 こんなに間があいたなら、ホッカムリを決め込んで、完全にしらばっくれてもいいのだ。「そんなの、とっくに終わったよ」とバックレても、誰にも叱られることはなさそうだ。
 何しろもう本編51回も書いて、番外編を入れれば53回に達する。残るは旅行最終日の記録のみである。最終日なんてものは、荷造りして、ホテルをチェックアウトして、四苦八苦して空港にたどり着いたら、もう飛行機に乗り込むだけで終わりだ。普通の人なら、「取り立てて書くことなんか何にもない」で済ませてしまうところである。
ウルトラにゃん
(ウルトラニャン)

 しかし諸君、それはあくまで「普通の人」の場合。生まれてこのかたボクチンは、「自分が普通のヒトだ」などとウヌボレたことは一度もない。鏡を見るたびに、そこにいるのはクマであり、自分撮り写真をブログに掲載するたびに、そこでムッツリ笑っているのは、サトイモ以外の何者でもない。
 そういうボクチンにとって、「集合写真」「卒業写真」は常に苦手の極であった。だって諸君、今井君の周囲にはズラリと「チャンとした普通の人々」が並ぶのである。マトモなヒトビトに囲まれて立つと、今井君のサトイモぶりはいっそう際立ち、クマ蔵ぶりはさらにさらに引き立つのである。
 松任谷由実以来、「悲しいことがあると、開く革の表紙」というのが世間の人々の定番の行動であるらしくて、「卒業写真のあの人はやさしい目をしてる」し、「ときどき遠くで叱って」もらいたいらしい。キメの台詞として「あなたは私の青春そのもの」なのである。
 ところが諸君、今井君の場合、「あなたは私のサトイモそのもの」だったり「卒業写真のあの人はいつでも黒いクマさん」だったりしたのでは、元も子もないというか、マコトに悲しい事態と言わざるを得ない。卒業写真を眺めるたびに「うぉ、今晩はサトイモの煮っ転がしにするかな?」というツブヤキが漏れるような成り行きは、さすがの今井君だってゴメンこうむりたい。
渋谷区
(東京都渋谷区)

 ところで、「今井君が今日のブログ記事で何を書こうとしているか」であるが、読解力の乏しいヒトはすでに道を見失って、「あれれ、この筆者はいったい何を言いたいんだろうか?」と、果てしない草原を右往左往する思いだろう。
 その辺が平成の現代文教育の抱える問題点を如実に示しているのであって、ただ単に「楽しいな!!」「コイツの雑談、とびっきり楽しいな!!」とニコニコ&ニタニタ雑談を楽しむ喜びを教えようとせず、教師はひたすら「筆者は何を言いたいんだ?」と難しい顔で問いかけてばかりいる。おお、コワい。
 「読書感想文を書かなきゃいけない」という前提で本を読めば、どんなに面白い本でも砂を噛むように味気ないだろうし、「レポートの課題」とされた途端、血湧き肉踊るほどワクワクする冒険譚だって、ちっとも食欲をそそらなくなる。
 「筆者は何を言いたいんだ?」「主張は何だ?」と、何だかヤタラ切迫した切羽詰まった読み方をするから、そういう現代文の時間は異様なほど眠くなる。というか、出席するのさえイヤになる。
袋ニャゴ
(今日も、ふくろ猫)

 現代文に限らない。英語の長文読解でも全く同じことだから、英語講師の今井君もその点をよーく注意していないと、せっかくの文章をつまらなくしてしまう。読みながら口が曲がるほど面白ければ、それでもう十分すぎるほど十分なのだ。
 むかしの大学入試の英語には「小説物語文」がよく出題されたものだが、普通に読めば楽しいものを「いいですかぁ、物語文の正しい読み方はぁ…」とか、余計なことを板書しては、素材を台無しにしがちだった。
 ただし、これは講師の責任とばかりは言えないのである。生徒からの要望として、
「論説文の読み方を詳しく板書してほしい」
「小説物語文の論理的読解法がわからない。1枚のボードやパネルでわかりやすく明示してほしい」
とか、そういうのが少なくないのである。
おまんじゅう
(猫まんじゅう)

 そういう時、まだ若くて野望に燃えていたり、なかなか出世できなくて焦っていたりすると、「ボクの方が♡♠先生よりわかりやすいんだ!!」とまたまた余計なことを言って、ニッチもサッチも行かなくなってしまう。
 例えばそれが佐々木ゼミ(まあ仮名)なら、富谷先生(あまりにもベタな仮名)とか、東先生(もっとベタな仮名)とか、そういう雲の上の超有名講師を引き合いに出して、「ほら、オレの方がわかりやすいだろ!!」と絶叫し、ごく少数の取り巻きの生徒だけが真っ赤な顔でうなずき、他の生徒はみんなソッポを向いてしまう。
 せっかく楽しくてたまらない文章にマーカーで線を引きまくり、「論理で読むんだ!!」とあまりにも当たり前なことを絶叫する。挙げ句の果てに「ボクの授業が予備校界で一番わかりやすいんだ」と締めくくられれば、アタマのいい生徒なら「何だ、結局この講師のイイタイコトはそこなのか」と、ちょっとニヤリとしてしまう。
箱入り猫
(箱入り猫)

 かくいうサトイモ君が「今日のブログで何を言いたいのか」と言えば、もちろん特にイイタイコトなんかない。実際、文章を書くヒトに「結局、何を言いたいんですか?」と尋ねれば、なつかしの沢尻エリカさまと同様「別に何にも」と、憮然として応答するしかないのである。
 料理人は、出した料理を黙っておいしそうに食べてもらえるのが一番うれしい。パティシエが見たいのも、黙りこくってニコニコお菓子をむさぼる姿である。料理やお菓子を前に「あなたは何を訴えかけたかったのですか?」と質問されたら、やっぱりエリカさま並みに憮然として「別に何も」とツブヤキ、心の中では「コイツはダメだ」と吐き捨てるのである。
 文章でも詩でも同じことで、それを書いたヒトがおそらく一番望んでいるのは、黙って読んでニッコリまたはウットリしてくれることである。「ご自由にお楽しみください」と差し出したその素材に、「これはこんなふうに楽しむんです」と横から余計なチョッカイを出すのは、あまり褒められたことではない。
YMCA
(YMCA)

 太宰治でも内田百閒でも、中高生を前にコワい顔の教師が「筆者はいったい何を伝えたかったんだ?」と問いかけている(正確には「問いつめている」に近い)様子を眺めたら、それだけで羞恥と嫌悪でいっぱいになり「ものを書くのをヤメようかな」と考えたに違いない。
 吉田健一が「とにかく旨い」という感覚を大事にしたことは、このブログでも頻繁に登場する話である。読んだら、とにかく面白い。食べたら、とにかく旨い。飲んだらやっぱりとにかく旨い。「こういうことを訴えかけたから立派だ」と言うんじゃなくて、とにかく旨くて、とにかく面白くて、とにかく楽しいのである。
回転レシーブ
(回転レシーブ)

 そのことは、外国旅行の最終日についても当てはまる。
「あなたにとって、ニューヨークとは?」
「東海岸で学んだことは?」
「結局この旅は何だったんですか」
みたいな、マスメディア独特の軽薄な問いには、サトイモ君はちっとも答えたくない。だって、ニューヨークもボストンもワシントンも、とにかく楽しくて、何を食べてもとにかく旨かった。
 だから、最終日もギリギリまで、意地でもしっかり楽しみたかったのである。帰りのヒコーキはJFK発19時だから、空港には16時半に到着していればいい。ならば、15時ぐらいまで最終日のニューヨークを満喫して、それからJFKに向かえばいいじゃないか。
 というわけで、11時半にチェックアウト。スーツケースはホテルに預けて、清々しい快晴のマンハッタンを、地下鉄で一気にチェインバー・ストリートまで南下した。
 今日のプランは、NY新名所「ハイライン」の散策と、ウォルフガング33丁目店のステーキランチである。今日もまた「とにかく楽しくて、とにかく旨い」な1日を過ごせそうであった。

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2E(Cd) 琉球古典音楽:独演・嘉陽正
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