Sun 120816 ラムジー軍団 アルプスの少女 酔生夢死のこと(ミュンヘン滞在記8) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 120816 ラムジー軍団 アルプスの少女 酔生夢死のこと(ミュンヘン滞在記8)

 5月21日、インスブルックの町から登山電車とロープウェイ2本を乗りついでトゲトゲ山の頂上にたどり着いてみると、近くの斜面からカラコロカラン♡ガラゴロガラン、家畜の首につけた鈴の音が聞こえてくる。ウシかヤギか、近くの牧場で放牧しているに違いない。
 こんな山の中の断崖絶壁に放牧して何の利益があるのか分からないが、まあウシではなさそうだ。ヒツジとヤギの区別が一瞬でつくほど動物には詳しくないけれども、山のテッペンで放牧するからには、山の羊さん→山羊さん=ヤギさんである可能性が高い。
ラムジー
(トゲトゲ山のラムジー君たち 1)

 やがて岩陰から姿を現した2頭は、写真のようなケモノであった。どこまでもどこまでも草を噛みながら岩を登って、とうとうこんな断崖の上までたどり着いたわけだ。
 もっと麓に近い場所の草だって同じぐらい美味しいだろうし、今井君が思うに、おそらく麓の草のほうがずっと旨いはずである。何が楽しくてこんな岩山のテッペンまで登ってきたのか、サッパリわからない。思えばケモノとは、マコトに愚かなものである。
 しかし諸君、そういう不用意な発言こそ「天にツバする」の典型であって、吐いたツバは即座に今井君の頭上に降りかかってくる。
「そういうオマエこそ、何を好き好んで東京→ミュンヘン→インスブルックとはるばる旅してきて、こんな岩山のテッペンなんかでヤギと戯れておるんじゃ?」。
マジメな神様にマジメに問いかけられれば、グーの音も出ない。パーもチョキも出ない。ヤギさんたちといっしょにメエメエ唸って退散。カラコロ♡ガラゴロ♡ガラゴロン。山の草はウンメエなあ。そう唸ってゴマかすしかない。マジメな神様は、ホントにオッカナイものである。
山頂1
(トゲトゲ山のラムジー君たち 2)

 改めて写真を見てみるに、こんなに毛がモコモコ生えたモコモコぶりは、どうも幼い頃の今井君が居抱いていたヤギさんのイメージに合致しない。ヤギさんって、もっと細くてゴツゴツしていて、アゴのあたりから長い毛の生えた、賢そう≒意地悪そうな目つきのヤツじゃなかったっけ?
 よく分からないし、区別をつけたところで何にもならないから、今井君は彼らをラムジー軍団と名付け、軍団の1頭1頭をラムジー1号/ラムジー2号と番号をつけて呼ぶことにした。数えてみるにラムジー軍団は約15頭の群れをなして行動しているようである。
山頂2
(インスブルックのトゲトゲお山で 1)

 ただし「群れ」という場合、英語ではherd/flock/swarm/run/cluster/flight/troop/school/gameなどメッタヤタラに該当する単語があって、その区別だけで論文が書けそうである。
 ウシとかウマとかゾウみたいなゴツゴツしたケモノの群れなら、herd。水鳥とかヒツジみたいにフワフワで、羽毛布団を作りたくなる群れだったら、flock。烏合の衆みたいに同類が単にウヨウヨしているのではなく、群れの中にチームとして役割分担があるなら(アリとかサルとかハチとかなら)troop。ま、ごく大雑把でいいなら、そんなところか。
 もちろん、こんなにカンタンに割り切れるわけではないから、興味のある人は自ら研究して、論文を書きたまえ。それぞれの単語がどこからどう発生したのか。時代による変遷はどうか。どんな作家がどんな場面でどう使用したのか。人間の群れについてはどう応用されているのか。たいへんだろうけれども、ヤリガイのある研究テーマかもしれない。うまく進めば、社会学の世界も待っている。
山頂3
(インスブルックのトゲトゲお山で 2)

 うーん。インスブルックの山の中でラムジー軍団を見ただけで、こうして今井君の頭はどんどんモヤモヤしてくるのである。
 確かにヒツジは群れを作って行動するはずだが、ヤギさんって、群れを作るんだっけ? コドモの頃の絵本では、ヒツジさんはいつも集団で寄り添っていたけれども、ヤギさんはたいてい1人で孤立して、ひねくれた一言居士というか、格言じみた皮肉な一言を残して去っていく、そういう存在だったように思う。
夕暮れのイン河
(夕暮れのイン河)

 こうなるともう「教えて、おじいさん」「おしーえてー、おじいさんー」と村の長老を頼る以外になくなってくる。こうして今井君は、オーストリアの深い山の中でアルプスの少女ハイジと化すことになる。
 こんなクマみたいなヒゲ面でハイジを名乗るのはさすがに恥ずかしいから、「高次」でいかが? 「高次」を見て「センセー、何ですか『タカジ』って?」と尋ねるようでは、キミ、まだまだ今井ブログに親しんで間もないヒトだね? 「高」⇔「ハイ」であるぐらい、一瞬で見抜きたまえ。
合成ではありません
(崖の上の勇姿 by ラムジー4号)

 そこで高次はラムジー軍団を追いかけ、断崖絶壁にたって遥か眼下のインスブルックの町を背景にポーズをとってみせるラムジー4号の勇姿を、何枚も写真に収めた。どうして4号なの? もちろん何の理由もない所が、高次(ハイジ)の高次たるところである。
 ハイジで思い出すのが、石川淳「おとしばなし集」の中の一編「アルプスの少女」である。昭和中期、石川という名の人気作家が2人いた。石川達三と石川淳である。昭和40年代ごろまでは新潮文庫から2人の作品が大量に出ていたものだが、世の中の変遷はあまりにも激しい。すでに2人とも、苔むした文学全集の中の存在になってしまった。
山頂4
(インスブルックのトゲトゲお山で 3)

 石川淳「アルプスの少女」を、今井君は高校2年の現代文の授業で習った。当時は「現代文」ではなく「現代国語」、略して「現国」と呼んだが、夏休み直前の秋田高校の教室で、アクビしながら授業を受けた。
 そもそも16歳や17歳の男子が現代文の授業に興味を持つには、担当する先生のキャラクターがよほど強烈であることが必要なんじゃないか。今井君の場合は、高田屋先生という新任の国語教師。身長180cmあまり、昭和の名優・高橋幸治とソックリの風貌(ググってみること)。現国だけじゃなくて、古文も漢文もこの先生だった。
 授業の進め方は、ごくオーソドックス。キャタクターも、特に目立つ所はなし。シャープな切れ味もナシ。まあ、生意気盛りの今井君としては「ねみー」「かったりー」「うざくね?」「その程度なら、文庫本の解説ににいくらでも書いてある」「旺文社の参考書にさえ載ってる程度のこと」という感じの、マコトにマジメな授業だった。
低い場所から
(山を下りてきた)

 高田屋という名前は、まあさすがに度肝を抜く。今井君の知っている高田屋は、江戸時代の高田屋嘉兵衛と、お蕎麦のチェーン店「高田屋」ぐらい。さぞかし由緒ある家柄なんだろうけれども、秋田という町には「屋」で終わる名字が溢れていて、高田屋だろうが何だろうが別に珍しいことは何もない。
 諸君、秋田市では、「越後屋」という名字のヤツがクラスに4人も揃っていたりする。加賀屋も多い。越中屋、越前屋、能登屋、敦賀屋、播磨屋。「屋」→「谷」に変化ないし転訛した名字も多い。加賀谷、越後谷etcである。さすがに河村瑞軒の西回り航路と東回り航路がぶつかる土地だ。日本海側の諸国から秋田に移住した人々だっただろう。
イン河1
(水量豊富なイン河 1)

 だから、単に名字が「高田屋」であるだけでは、生意気盛りの生徒には何のアピールもない。新潟県高田市あたりから、秋田に移住した商人の家系の末裔ということだろう。では何故あれから数百年ののち、インスブルックのハイジグマは高田屋先生のことを思い出したのだろうか。
 それは、あの夏の日の黒板の真ん中に大書されていた「酔生夢死」の文字のせいである。石川淳「アルプスの少女」の解説も、いかにも教科書通りと言うか、学習指導要領通りの、マジメ一方の授業に過ぎない。しかし、古ぼけた教室の古ぼけた黒板の真ん中に大書された「酔生夢死」の大きな文字だけはマブタの裏に残って、今も消えようとしない。
イン河2
(水量豊富なイン河 2)

 ヒトの記憶というのは、不思議なものである。ヤギだかヒツジだか判然としないラムジー軍団をカメラで追いかけながら、こんなアジアのクマ蔵の脳裏に蘇っていたものが、まさか高田屋先生の平凡な授業と、「酔生夢死」という空しい文字の姿だったとは、余人の想像しうる域をあまりにも大きく逸脱しているではないか。

1E(Cd) Shelly Manne & His Friends:MY FAIR LADY
2E(Cd) Sarah Vaughan:SARAH VAUGHAN
3E(Cd) José James:BLACKMAGIC
4E(Cd) Radka Toneff/Steve Dobrogosz:FAIRYTALES
5E(Cd) Billy Wooten:THE WOODEN GLASS Recorded live
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