Sun 120520 サッカーに感激 35%という絶妙の数字 100語りたいが、35で我慢する | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 120520 サッカーに感激 35%という絶妙の数字 100語りたいが、35で我慢する

 昨日は19時から21時まで、サッカー日本vsオーストラリア戦を見ながら絶叫を100回繰り返し、血液も筋肉もサッカーになるぐらい徹底的にサッカーにのめり込んだ。視聴率35%、最高視聴率46%だから、今井君も35%と46%の一員になったのである。
 PKで同点にされたいきさつについては、100%の人々がミスジャッジと信じたに違いない。その100%には、オーストラリアの選手とサポーター全員も含んでいる。そのぐらい、オーストラリアの人々のフェアプレーとフェアな応援は爽快だった。相手ながら、喝采を送りたい。
 疑惑の判定も多かったし、特に終了間際のFKを蹴らせてもらえなかったことは、ラグビーファンとしてはマコトに信じがたい。ラグビーなら、相手の反則行為でノーサイドになることはあり得ない。相手が反則を繰り返すかぎり、いくらでもペナルティが続いて、インジュアリータイムは5分でも10分でも継続するのである。
高貴な感じ
(高貴さを表情で表現する)

 平均視聴率35%であったが、昨日はNHKのBSでもサッカー中継があった。東進が大キライでCMを見たくない人たちは、きっとテレビ朝日を回避してBSでサッカーを楽しんだものと思う。すると、全体のサッカー視聴率は合計40%を超えていたはずだ。何とも素晴らしいことである。
 何度も繰り返すが、日本を代表する巨大企業に肩を並べて「東進ハイスクール」が提供クレジットに名を連ねることに、今井君は感謝♡感激♡感動で涙が溢れるのである。だって、TOYOTAとKIRINとSUNTORYとNTTドコモとTOSHIBAと、そして東進ハイスクールだ。30年前の塾や予備校を思えば、まさに信じがたい事態である。
カゴネコ
(カゴの上を住処とする)

 35%という数字がまた絶妙である。そりゃ理想を言えば100%がいいに決まっているけれども、「100欲しいところを35に抑えておく」というのは、人生のどんな場面でも重要な抑制である。「100欲しいから絶対100」と駄々を捏ねるのは、幼い人間の傲慢に過ぎない。
 イチローみたいな大打者だって、打率は3割5分である。35%ヒットが打てれば日本でもメジャーリーグでもおそらく首位打者になれるので、万が一打率10割という選手が出現したら、その選手に人気が出ないばかりか、野球というゲームそのものが崩壊の危機に陥る。
 視聴率や東大現役合格占有率も、やっぱり限度は35%。それを無理やり超えようとすると、ウソや誇張が混じったり、数値の意図的操作が恒例になったりして、数値自体の信頼性まで損なうことになる。欲張りは、欲張りすぎて土俵を破壊する危険性が高いのだ。
カゴネコ拡大図
(カゴネコ、拡大図)

 教師でも講師でも、100教えたいことがあったら35にとどめる努力が大切。未熟な教師は「100教えたいから100教えよう」とモガキ苦しみ、100教えようとしない教師を非難または批判して、結局は生徒たちを傷つける。
 今井君は今まで教えてきた様々な予備校で、そういう講師の授業用テキストを何度ものぞき込んだことがある。テキストは異様に多くの書き込みで真っ赤に染まり、長文読解問題の1語1語に、語源/反対語/同義語/派生語/発音アクセントなど、ありとあらゆる情報が詰め込まれている。
 そればかりではない。1語1語に「こぼれ話」やトリビアまでくっついている。例えばfascination「魅惑」という名詞が出てくるとする。すると彼は「語源はfasciである」と言わずにはいられない。
 ファッシとは、ラテン語でファスケス。権威者の象徴みたいな棒の束で、古代ローマに関するドラマや映画を見ていれば頻繁に登場する。「標章」と訳すこともある。試しに、10年前の映画「グラディエーター」か、人気ドラマ「ROME」を借りて、観てみたまえ。古い映画が好きなヒトは「ベン・ハー」でも「スパルタカス」でもOKだ。
 すると今度は、ファッシとファッショの関係を述べずにはいられない。ファッシ→ファッショから、ファッシネーションへ。その関連についてのトリビアやこぼれ話を延々と語り尽くせば、50分とか90分の授業なんか、あっという間に時間切れになる。
気合いの違い
(気合いで勝負 1)

 別のある教師は、高校生を前にしてbe動詞について興奮して語り始める。なぜ原形がbeなのか、beなのに、なぜ1人称だとamになり、2人称はareに変化するのか。過去形ではwasやwereみたいにwの発音が前にくっつくのは何故か。
 同じ動詞がドイツ語ではseinであり、その変化形は1人称bin/2人称bist/3人称istであって、その3人称istと英語のisの関係は何か。ロシア語にはbe動詞に該当する動詞が存在しないが、それは何故か。スペイン語ではbeに該当する動詞が2つあって、serとestarであるが、その2つの使い分けはどうするか。それを英語のbeの理解にどう応用するか。
気合いで勝負
(気合いで勝負 2)

 知識欲旺盛な生徒は往々にして「全体を把握する」という力量に欠けている。トリビアの連続に感激し、講師のデスクを訪れては「感動しました」と感激を熱く語る。講師と生徒がじゃれあって、生徒は取り巻きになり、講師はますますトリビアに夢中になって、テキストは半分も終わらない。
 こういうのは、本来カルチャーセンターで中高年の趣味としてやるべきことである。中学や高校や予備校では、何よりもまずその教材で教えるべき内容の厳選が必要。何度も繰り返すが、教師の日々の予習とは、「何を教えずに我慢するか」という苦しい選択のことを言う。
 教えたいことが100あるとして、そこから70を選択し、70を50に絞り、50を40に、40を35に厳選する。このプロセスを精選という。これはホントに苦しい仕事である。70から50まではまあ何とかなるとしても、40から35への精選は、他のどんなことにもまして苦しいと信じる。
 何しろ、「これを話せば絶対にウケる」という鉄板ネタとか、「これを話せば、明後日の河合塾全統模試に出る」と分かっている文法事項とか、それを省いて35まで減らすのだ。何故? 明後日の全統模試には出るだろうが、生徒たちのホンモノの学力向上から見たら、そんなことは些細すぎる瑣末事だからである。
いきつけ
(昨日は幡ヶ谷で飲んだ。いきつけになりつつある「祐定」店内風景)

 そうして、毎回の授業で精選に精選を重ねて、1学期の最終回の最後の1分でテキストの最後の1行を解説し終える。2学期最終回の最後の1秒で最後の1センテンスの解説を終える。チャイムと同時に最後の板書を終えて、チャイムの響きと同時に教室を出る。
 トリビアについての感動を語りにくる生徒は多くない。「先生が言ってた単語、河合模試にすぐ出題されました♡」と大声で騒ぐ生徒もいない。しかし、ほとんどの受講生がキチンと志望校に合格し、合格後もどんどん力を伸ばしていく。
 そういう精選の仕事に耐えられる教師は、滅多にいない。生徒をトリビアで感動させたいし、溢れる知識に感激もしてほしい。100語りたいことがあれば、120も150も語りたい。うんにゃ、200語っても語り足りない。しかしそれは、まだ未熟なだけなのだ。
 以上、35の魅力と厳しさを語ってみた。まだまだ舌足らずなので、これから何度か似たようなことをこの場で語ることになると思う。

1E(Cd) Rubinstein:CHOPIN/MAZURKAS 2/2
2E(Cd) Lima:CHOPIN FAVORITE PIANO PIECES
3E(Cd) Muti & Berlin:VERDI/FOUR SACRED PIECES
4E(Cd) Reiner & Wien:VERDI/REQUIEM 1/2
5E(Cd) Reiner & Wien:VERDI/REQUIEM 2/2
total m95 y742 d8637