Tue 120515 鉛色の空に覆われた日々こそ、旅の本質である(スコットランド周遊記11) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 120515 鉛色の空に覆われた日々こそ、旅の本質である(スコットランド周遊記11)

 これでもう旅に出て7日目になるわけだが、9月1日、今日もまた重い曇り空と冷たい雨である。
 ここまでの7日間で青空を見たのは1度だけ、ダブリンからリバプールに向かう船に乗り込んだ早朝だけであって、その他は全て夏とはとても信じられないぐらいの寒々とした曇り空。さすがの今井君も、暗さと寒さにネをあげはじめた。
 今日から9月になるから、きっともっともっと寒くなる。今日もセーターを着込んで出かけるが、欧米人はみんなコート姿。男子の多くは真冬のスキー場のようなカッコで歩いていて、今井君の薄手のセーターが何とも頼りなく見えるぐらいである。なるほど、これじゃ旅もパッとしない。
時刻表
(ボウネスからアンブルサイドへの船の時刻表)

 しかしその時クマ蔵はふと気づく。「これこそ旅の本来の姿ではないか」「旅はもともとパッとしない日々の連続であるべきで、最近のボクチンの旅はいちいちパッとしすぎていたのではないか」。そういう話である。
 何度もブログに書いてきた通り、今井君が欧米諸国をやたら歩き回りに出かけるのは、「何もしないため」であって、実際ホントに何もしない。勤勉な団体ツアーのヒトビトなんかからみたら、「けしからん」と怒鳴られそうなほど、絶対に何もしない。
 それが「パリに10日いてオルセーを見ない」「マドリードに1週間滞在してプラドに行かない」「ロンドン10日で大英博物館に入らない」という、美術館&博物館を回避する姿勢である。
 フィレンツェに3度も行ってウフィツィに寄りつかない。こういうクマの旅は、見物と物見遊山に熱心な団体ツアーのヒトビトからすれば許しがたい暴挙であり、ムダ、怠惰、「いったい何をしに行ったの?」という詰問の対象である。
3色牛
(アンブルサイドで。雨の中、3色の牛が草を噛んでいた)

 しかし今井君は「何もしない」ために海外に飛ぶのが大好きだ。せっかく外国を歩くなら、何もない裏町をブラブラ&テクテク好き放題に歩き回るチャンス。それなのに、美術館や博物館の閉ざされた空間に逃げ込み、日本人だけで固まってコソコソしているのは、つまらない。
 国境線を越えたら、普通のヒトビトの生活空間に踏み込んでみたほうが面白いじゃないか。旅行雑誌の記事通りの名所を回り、MUSTと書かれている店で食事とショッピングをするだけじゃ、あんまり従順すぎて、おとなしい草食動物の一員みたいじゃないか。
 だからむしろ「パッとしない」ほうが、今井君の旅の本来の姿。しかし最近の今井君の旅を反省するに、どうも「パッとしすぎ」だった。2009年から以降、ウィーン、ブダペスト、プラハ。リスボン、バルセロナ、グラナダ、サンティアゴ、マドリード。アテネ、ミコノス、サントリーニ。ミュンヘン、フランクフルト、イスタンブール。派手な旅ばかり続けてきた。
 うーん。これじゃやっぱりパッとしすぎだ。毎日重苦しい曇天が続き、歩いても歩いても裏町の暗い風景と雨ばかり。こういうツマラナイ日々が2週間ずっと連続するようなのこそ、今井クマ蔵の本来の旅のやりかただったんじゃないか。
アンブルサイド遠景
(船からのアンブルサイド遠景)

 以上、悔しまぎれの言い訳♡強がり♠負け惜しみである。今日もまた灰色の雨に閉ざされた湖の風景を見た時に、「また雨か」「今日は寝てようかな」「寝て過ごすのも旅の醍醐味だよな」とますます怠惰のほうに引き寄せられたクマの、深い溜め息についての詳しい解説なのだ。
 一流の芸術家でさえ、疲れ果ててふと弱気になった時に、「ごく平凡な生活を描くことこそが芸術」と、愚にもつかぬ方向転換を図ることがある。イスタンブールみたいな異質な街に疲れて、住み慣れた東京の平凡な日々が恋しくなるのと同じことである。
ヒツジたち
(アンブルサイドのヒツジの群れ。メシ粒のように見えた)

 「普通のヒトビト」「静かな生活」みたいなタイトルを付け、「事件は何も起こらないし、規格外の人物は1人も登場しない。平凡な人々の平凡な日常を描きました」とか、苦しい説明をしながら、ホントにつまらない映画や小説が出来上がる。
 事件を構想し、規格外の人物を創作し続けることに疲れただけであるが、批評家の評判だけは「画期的」とか「新境地」とか、意外によかったりするから、芸術家は調子に乗ってしばらく同じタイプのものを作り、すっかりダメになってしまったりする。
3色牛接近
(3色牛、接近図)

 さて、ウィンダミアのクマ蔵は「もう雨の中で震えながら歩き回るのはイヤだ」「ベッドでヌクヌク寝ていたい」という強烈な願望を振り切って、ホテルからすぐそばのボウネスの港まで降りて行った。水鳥たちもみんなコチンと固まって、いかにも寒そうに首を振っていた。
 ボウネスからは、湖をクルーズする船が頻繁に出航していて、クマさんはとりあえず定番のアンブルサイドAmblesideまで行ってみることにした。鉛色の湖の上を30分、甲板に出ている人はほとんどない。
 アンブルサイドの船着き場で船を降りた人々は、30人ほど。ここから街まで、坂道を歩いて20分ほどかかる。貸別荘群が連なり、農場や牧場が点在して、数十頭のヒツジの群れが呆然と立ち尽くしていたり、牛たちが座って草を噛んでいたりする。
湖の風景
(ウィンダミア湖の風景)

 別荘の多くがこの地方独特のスレート造りである。もっとも、そういうことはガイドブックに書いてあるから分かるだけで、実際のクマ蔵は「うへ、寒い」「もうイヤだ」「早くどこかでメシを食いたい」「とにかく酒だ酒だ。安いワイン1本丸飲みしたい」、そういう獣のような直接的欲求と欲望の虜になっている。
 固有名詞をあげるなら、この田園風景こそ、ワーズワースの世界であり、ターナーの世界である。
 むかしむかしフジテレビの深夜番組で「ワーズワースの庭で」というのがあったし、駿台テキストでよく登場したので、ワーズワースという詩人が存在することは何となく知っていたが、まさかこんな寒い夏の日にワーズワースの世界を体験するとは思っていなかった。
アンブルサイド近景
(アンブルサイド風景)

 夏目漱石の小説を読んで過ごした中3の夏に、「ターナー」という名の画家がよく登場することに気づいた。三島由紀夫のエッセーを読むと「ワットオ」が頻繁に登場するが、ググってすぐにターナーやワットオが調べられる時代ではないから、中3の今井君は何とも図書館臭い中学校の図書館に入り、百科事典でターナーとワットオを調べたものである。
 数百年の後、ついに今井君の目の前にターナーの原風景が広がり、スレート造りの農家には「ターナーがモデルにした」と逸話も残っている。ワーズワースが詩に綴った北イングランドの農園も目の前にある。
スレートの家
(スレートの家)

 マトモな人なら、感動したり感激したり、ツイッターに呟いたり絶叫したり、腕をグルグル回しながらヒツジや牛を威嚇したり、そういうたいへん激しい行動に訴えるところだ。
 しかしマコトに残念なことに今の今井君は、鉛色の空と湖の風景に気分のすっかり滅入ってしまった哀れなクマどんである。「クマどん、ターナーやワーズワースは好きですか?」と問われて、素直に頷くはずもない。それよりワインだ。温かいメシだ。そういう元も子もない下品なセリフを吐く。
ワーズワースかターナーか
(ワーズワースとターナーの風景)

 目立たない店の、混雑した奥のテーブルで、ついに待ちに待ったメシがきた。しかし諸君、求めていたホカホカの白い湯気は全く感じられない。
 白ワインは常温、メシも常温。要するにヌルいワイン&冷めたメシである。何の料理か、注文したクマ蔵自身がよく分からないメトメトした料理。ビールがホンのちょっぴり冷えているような気もしたが、それだって湖の上の風に比べれば、むしろ生あたたかいぐらいである。
圧倒的水鳥
(圧倒的水鳥たちの光景)

 諸君、間違ってはイケナイ。クマ蔵はこの生あたたかさを、むしろ愛するのである。ブログでも小説でも、演劇でも外国旅行でも授業でも、鉛色で重苦しくて、感動も感激もないのこそがホンモノなのである。
 料理も酒も、口に入れた途端にあまりのオイシサに表情が歪むようなのは、ウソなのだ。日常は生温く、涙や感激なしに永続するものである。日常を克明に記すブログに、激しい詩的感動が毎日連続するなら、おそらくそこには構造的なウソが紛れ込んでいる。
 旅は、生温いのがホンモノ。メディアが懸命に制作する感激の旅番組に、誰もが作り物のアクドサを感じて飽き飽きするのは、まさに当然のことなのである。

1E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.1 & No.4
2E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.2 & No.6
3E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.3, No.5 & No.8
4E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.9
5E(Cd) Gunner Klum & Stockholm Guitar Trio:SCHUBERT LIEDER
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