Sun 120415 梶木隆一教授と旺文社「英語の基礎」のこと 何を教えず、何を省くか | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 120415 梶木隆一教授と旺文社「英語の基礎」のこと 何を教えず、何を省くか

 梶木隆一教授死去にあたって、どうしても一言書いておきたい。101歳の大往生だったが、梶木隆一先生は若き日の今井君が著書を通じてお世話になった先生の一人であり、講師になってからも「わかりやすく教えるとはどういうことか」の基本には常にこの先生の著書があった。

 梶木隆一「英語の基礎」(旺文社)。自分で買ったのではない。4歳上の姉の書棚にずっと飾られていた参考書を、中3の夏にコッソリ頂戴して通読したのである。姉はその年の春から早稲田大に通っていたから、高校生用の参考書はもう必要なかったはず。頂戴してもまあ文句はないだろうと考えた。

 昔の高校では、こういうハードカバーの参考書を生徒全員に買わせて定期テストの範囲を設定し、無理矢理やらせるのが流行だった。「○○ページから××ページまでやっておけ。期末テストで出題するからな」という、今もなお多くの高校で流行中のやりかたである。
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(深い考察 1)

 英文法なら、江川泰一郎を買わせるか、それとも梶木隆一を買わせるか(ここから敬称略)、それは高校の先生のプライドによって決まる。プライドの妙に高い先生は「旺文社」という出版社名だけでバカにしたような表情を浮かべ、「ウチの高校では、旺文社の参考書や模試はつかいません」と生徒の前で鼻を鳴らしてみせた。

 教師のクセや態度の伝染力は驚くほど強い。伝染と言って悪ければ、影響力と言い換えてもいい。そういう高校の卒業生は、「旺文社?」と聞き返しながら、冷笑的な頬笑みを浮かべたりした。

 昔の旺文社模試には、21世紀の予備校模試をはるかに凌ぐ影響力があった。旺文社模試の結果を進路指導の根幹に置いていた高校がほとんど。しかし超有名高校の生徒たちは最初からバカにして旺文社模試を受けない。「旺文社模試なんか、受けるだけで恥だよね」と皮肉な笑いを浮かべながら頷きあうのである。

 確かに今井君の秋田高校でも、「旺文社模試で全国1位になったのに、東京大学に落ちた」という先輩がいた。先輩の中にそういう人が1人でも存在すると、「旺文社模試なんか受けたって何にもならない」というウワサが広がる。王者の風格すらあった旺文社に翳りが見えたのは、あの頃だったかもしれない。

 今井君の学年にも、高2の秋に旺文社模試全国1位を取った生徒がいた。確か「鈴木さん」という女子生徒だったが、その後彼女がどうなったか、その行方を今井君は知らない。ただ、嫉妬に燃えた同級生たちが「あの模試で1位になっても仕方ないよな」「東京の御三家とかは受けてないんだろ」と秋田弁で話し合っていたのは記憶している。
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(深い考察 2)

 しかし、今井君は今も昔も旺文社ファンである。江川泰一郎vs梶木隆一だって、通読した経験から言えば、あるいは高校生の学力の現実を知れば、また数百年にわたって予備校で英語を教えてきた経験に照らしても、学習参考書としてはどうしても梶木隆一に軍配を上げたいのである。

 参考書でも授業でも同じことで、一番大切で一番困難なのは「何を省くか」「何を教えないで済ませるか」「あえて教えず、あえて省くことによって、根幹をどう分かりやすく整理して伝えるか」の判断である。

 さらに「読者からの批判にどう耐えるか」という問題も発生する。あえて教えず、省いたことで、『あれも教えていない』『あれも省いている』『チャンと教えていない』という批判や非難がたくさん寄せられるのが、この世界では常である。同僚からの批判もあるし、中には罵声に近い非難だって含まれている。

 その時、「基礎を学習中の生徒には、教えないでおくほうがいいんだ」「例外とか、難しいことはもっと後からやればいい」と、キチンと批判に答えられるか。これは本を書くヒトや、授業をする人の胆力や忍耐力の問題。高校教師でも、大学教授でも、話は同じである。
賢いナデ
(深い考察 3)

 狭いスペースに何でもかんでも詰め込めば、消化できずに混乱をきたす可能性が高まってしまう。「狭いスペース」という言葉で今井が示すのは、
① 参考書なら、ページ数
② 予備校なら、授業時間
③ 生徒や学生についてなら、1人1人の理解力の総量
である。

 例えば、関係詞について解説するとする。300ページの学習参考書で関係詞について説明できるのは、せいぜい30ページ程度。たった30ページで、「あんな例外もある」「こんな例外もある」「しかしこの例外にはさらに例外があって…」と自分の知識を書きまくり始めたら、確実にスペース不足に陥る。

 すると、基礎部分が疎かになったり、説明が木で鼻をくくったようになって、教師が調べ物をしたり例文を探すにはいいが、生徒が読むには難しすぎる超高級学習参考書が出来上がる。

 活字はどこまでも細かく、ページ数は膨らみ、17歳や18歳の普通の高校生に与えるには、ヘビーすぎる本になるわけだ。書店では学習参考書のコーナーに置かれるが、対象は高校や予備校の教師。高校生が買っても、書棚の飾りにしかならない。
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(深い考察 4)

 こうして江川泰一郎先生のほうは、あくまで辞書のように参照する本、先生がたが参考にする本として歴史に残る名著になった。しかしまさか高校生に向かって「あれを通読してきなさい」とは言えないし、とても通読できるものではない。ついでに、そんな難行苦行を経験しても、あまりプラスはなさそうである。

 教室での授業でも同じことが言える。いつかも書いたが、今井君が授業の予習をする時、その中心を占めるのは「何をどう省くことによって生徒の理解を促進し、混乱を回避し、頭の中を効率よく整理してあげられるか」の検討である。

 そういう努力を怠って、たった90分の授業に知っているすべてを詰め込もうとするから、予習不足の先生は授業を延長するハメになり、テキストも半分しか終われない。大量のやり残しは生徒にとって大損害のはずだが、それは教師が「何でもかんでも詰め込もう」と張り切りすぎた結果の損害である。

 さらに、生徒の能力も考えてあげなければならない。天才ならともかく、どんな秀才であれ、一定期間に脳や身体に染み込ませられる知識の総量は限られている。省くことをせず、とにかく知っていることのすべてを述べたのでは、目の前の生徒や学生や読者の頭は、多くの場合パンクしてしまう。
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(深い考察 5)

 「高校で買わせる」タイプの参考書は、その後いろいろな変遷を経てきた。ロイヤル英文法か、マスター英文法か。桐原書店の英頻か、伊藤和夫の英頻か。原仙作か、伊藤和夫「英文解釈教室」か。ネクステージか、アップグレードか。フォレストか。歴史を顧みると、「生徒の実力より、先生のプライド優先」という状況には変わりがないようだ。

 要するに「ホントは先生が教えるべきなのに、本を指定して無理矢理やらせる」というコンセプト。今井君は何となくその考え方がイヤなのだが、梶木隆一だけは、中学3年のころ通読した経験から「あれなら、ありかな」「省くべきことをチャンと省いてあるからな」と思うのである。

 死去された直後、「駿台予備校でも教鞭をとられた」と知る。東京外国語大学名誉教授が、予備校で教鞭をとる。「なるほど、梶木教授あたりから、大学の先生がたが予備校の授業に注目し始めたのだな」と、今になって「英語の基礎」が何故あんなに分かりやすかったのか、その理由に思い当たるのである。

 目の前に高校生や予備校生がいて、彼ら彼女らの表情を見守りながら授業をしていれば、省くことの大切さ、教えずに我慢する大切さ、その努力の結果として生徒たちの頭の中がキレイに整理整頓されていく様子を、目の当たりにすることができる。梶木教授は、その喜びを何より大事にする方だったのだと信じる。ご冥福をお祈りする。

1E(Cd) Solti & Chicago:BEETHOVEN/SYMPHONIES 3/6
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3E(Cd) Solti & Chicago:BEETHOVEN/SYMPHONIES 5/6
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7F(Ms) レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想:Bunkamura
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