Thu 120405 形容詞の貧困 枕草子を読むべ 焼き鳥屋の会話 下北沢でアボカドを貪る | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 120405 形容詞の貧困 枕草子を読むべ 焼き鳥屋の会話 下北沢でアボカドを貪る

 芝居を観た後で焼き鳥を片手に一杯飲むのは、芝居本体以上にエキサイティングであることが多い。その際「焼き鳥を片手に」が必須条件であって、焼き鳥以上に高級な食材を求めれば、せっかくの「芝居の後の一杯」の価値は下落する一方である。
 焼き鳥に付き物なのは、エダマメ、きんぴら、キャベツ、焼き味噌など。たったいま同じ芝居を観た者どうしの演劇論が十分に盛り上がるには、焼き鳥やエダマメがあんまり旨すぎないことも大事な条件である。口に何かを運ぶごとに「旨い!!」「旨いね!!」「こりゃ旨いや!!」と絶叫していたのでは、演劇論はあっという間にしぼんでしまう。
 その点、下北沢は大いに恵まれていて、本多劇場やザ・スズナリの後の焼き鳥屋の選択には困らない。どの店に入っても「旨いね!!」の絶叫で演劇論が中断される心配はない。褒め言葉にはならないが、どの店も談論風発優先。中庸を心がけているというわけだ。
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(じっと見る 1)

 今井君がグルメ番組大キライなのは、食べたものがどう旨いかをいちいち言葉で説明するから。旨いものは「とにかく旨い」のであって、「こうだから旨い」「ああだから旨い」と説明しなければならない程度のものは、もともとあんまり旨くないのだ。
 書くのはもうこれで3度目になるが、何でもかんでも「甘い」「こりゃ甘い」「すごく甘い」と絶叫するのは、ホントにホントにもうヤメにしたほうがいい。エビもキャベツもタマネギも、ラー油やワサビや唐辛子まで、口に入れた瞬間「甘い!!」から始まるのは異様である。
 もしどうしても旨さを言葉で説明するとしたら、「Aであり、Bであり、Cでもある。しかしその奥の方から、ふと甘みも感じる」が正しいので、いきなり白眼をむいて「甘い!!」とウワゴトのように言われては、タマネギさんやモヤシさんが可哀想だ。「ボクたち、お砂糖やハチミツじゃないよ」「甘みの前に感じることがいろいろあるでしょ」である。
 それほど甘いのがお好きで、甘い以外の形容詞が口から出ることはまずないのに、日本酒だけは絶対に甘くない。そのシチュエーションでは「辛いっ」と叫ばなければならないことになっていて、旨いと評判の日本酒を口に入れた瞬間に間違えて「甘いっ」と絶叫すれば、おそらくその一言でグルメ番組レポーターは失格になる。
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(じっと見る 2)

 「やわらかーい」も、同じことである。肉でも野菜でも、「旨い」とは言わずに「やわらかーい」であって、何をどう間違えても「かたーい」と言うことはない。
 しかし今井君なんかはお肉はちょっと固い方がいいので、ハラミとかモモ肉とか、脂の少ない方が旨味も増すと思うのだ。「噛めば噛むほど旨い」を楽しむためには、「やわらかーい」「噛む前に溶けちゃった」では困るのである。
 たっぷり歯ごたえがあって、噛めば噛むほど味が出るほうが、人間だって芝居だって小説だって面白い。甘くてやわらかくて噛む前に溶けちゃうようなものばかりプラス評価していたら、社会も文化も教育もみんな甘くて、噛む前に溶けちゃうようになる。政治も経済も甘くて柔らかいと、外はボロボロに腐敗し、中身もドロドロに溶解してしまう。
 ボクらはもっと形容詞を豊かにしなきゃいけないと思うのだ。「甘い」と「やわらかい」ばかりメディアの全面に出てくるような社会じゃ、みんな虫歯になっちゃって、アゴも弱けりゃ、咀嚼もままならない。社会の歯とアゴを強くしてくれるのは、形容詞の豊かさだと思うのだ。
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(じっと見る 3)

 諸君、マコトに突飛な提案で申し訳ないが、「枕草子」を読みたまえ。は? どうした&どうした? クマ蔵どん、どうしました? また「ホッマゲ」ですか(一昨日の記事参照)? いや、形容詞を豊かにし、形容詞力を鍛えるためには、ボクチンは「枕草子」こそ特効薬だと信じるのだ。
 徒然草、今井君は大好きだ。源氏物語、それも大好き。1997年、人生で初めて出版した参考書「英文法入門」(代々木ライブラリー)の筆者プロフィールには「平家物語とバッハと、秋田の酒『飛良泉』が好き」と書いたから、きっと平家物語も好きなのだ。
 しかし今、「形容詞の豊かさ」を基準に考える時、どうしても枕草子をトップに押さずにいられない。いやはや、清少納言どんは主観のヒトである。行動するのではなくて、ひたすら主観を口にする。「清少納言どんが苦手だ」「読みにくい」と言うヒトも少なくないが、それは「主観を一方的に並べ立てる人は苦手」ということである。
 しかし形容詞は、主観を述べる最大の武器である。彼女の研ぎすまされた形容詞の羅列に、いまこそ真摯に対峙すべきだと信じる。清少納言どんと人間として付き合わなきゃいけないわけじゃない。対決だって構わない。例のオマージュ(一昨日の記事参照)を書いたっていい。諸君、オマージュのつもりで「枕のクサコ」、ぜひ書いてみたまえ。
ねむくなる
(ねむくなる)

「どうだい、芝居をつくるなら、演出家も脚本家も、形容詞を研ぎすましてみないかい。形容詞で出来た芝居、役者が形容詞ばかり(Mac君の変換は『形容芝刈り』だ)口にする芝居、そういうのに挑戦してみないかい」
「そうだな、それは面白いな。シチュエーションはどうする? 行動しない演劇。平手打ちも絶叫も、秘密も愛の告白も、裏切り口論もない。朝の挨拶さえない。登場人物がひたすら形容詞で主観を主張するうちに、現実と夢がナイマゼになり、雪崩をうって一気にクライマックスに向かう。形容詞が生み出すカタストロフィだ」
ふてくされる
(ふてくされる)

 以上が、芝居を観た後の焼き鳥屋での会話の典型である。読者諸君。諸君はいま知らぬ間に、焼き鳥屋のテーブルで酔っぱらった今井君としばらく会話を交わしていたのである。
 外は生ぬるい風が吹き、弱い雨も降り始めた。天気予報が予報した「落雷、暴風雨に注意。早めに帰宅した方がいいでしょう」というほどではなかったが、何となく嵐になりそうな不安と予感が漲っていた。
 入った店は、本多劇場から北沢タウンホールに抜ける路地に、数軒並んだ薄暗い店のうちの1軒。入った時間帯が早すぎたのか、最初はガラガラだったけれども、気がつくとすっかり満員で、午後7時には空いているテーブルは1つもなくなっていた。
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(2匹で鳥を威嚇する)

 楽しければ楽しいほど、同じ料理ばかり注文するクセがある。それが前日のエダマメ旋風だったわけだが、この日はひたすら「アボカドのラー油がけ」だった。
 アボカドをまるまる1個、7つか8つの輪切りにして、上から「食べるラー油」をかけただけである。緑と鮮やかなオレンジ色は、ひと昔前の高崎線に宇都宮線、ふた昔まえの湘南電車のような、不思議な色彩感覚である。
 これを4皿連続で貪り食った。だいぶ酔っていたので、何を食べているのかサッパリわからないが、どうせサッパリわからないなら、いちいち「何を食べようかな」と迷うのは面倒だ。「同じヤツ、もう1皿」が一番カンタンで、話にもいっそう身が入る。
「そろそろ帰ろうかな。だって、お腹の中はアボカドだらけ。アボカドの芽が出そう」
「お腹の中はラー油だらけ。ラー油の油田が湧きだしそう」
「昨日は大量のエダマメ、今日は大量のアボカド。さぞかしお腹は緑色。新緑の季節にふさわしく、お腹もすっかり緑色」
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(キミは東へ、私は西へ)

 こういう言語道断に妙竹林な気分でいたとき、ちょうど店に入ってきた女子2名と目が合った。大学生と、おそらく彼女のママ。この類いにお店にはちょっと異質な感じのお客さんたちである。
 大学生女子がマトモにこっちを見ているので「ははあ、『今井先生ですか?』が来るな」と身構えた。だって、まさかお腹の中でエダマメとアボカドが緑の旋風を巻き起こしているなんて、知られたくないじゃないか。息がラー油臭いのを知られたらマズいじゃないか。
 案の定モト生徒で、「まさか、こんな店で今井先生と会えるとは」と小さく叫ぶ。「どのぐらい素晴らしい先生か」をママに解説し、ママもこっちをチラチラ見ながら嬉しそうにニコニコしている。今井君は慌てふためいて、しかし慌てふためいていると悟られてはならないから、また焼酎お湯割りをガブ飲みし、15分ぐらい経過してから帰ることにした。
 出がけに「一緒に写真を撮ってください」と言われ、ママの遠慮がちに構えたカメラに、こちらも遠慮がちに収まった。周囲のお客も「何だ何だ、有名人か?」と盛り上がり、しかし大したヤツではないのを知って落胆し、またはちょっと安堵して、再び談論風発のテーブルに戻っていったようだった。

1E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 1/10
2E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 2/10
3E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 3/10
4E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 4/10
5E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER④
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