Tue 120107 3人のおばあちゃん 3回目のサグラダ・ファミリア(バルセロナ滞在記28) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 120107 3人のおばあちゃん 3回目のサグラダ・ファミリア(バルセロナ滞在記28)

 一つの都市に長期滞在して、そこから鉄道とバスで小距離旅行を繰り返すというのが、いつものクマ蔵の旅のやり方である。
 真ん中からたくさんのハリがニョキニョキ出ているイメージ。華道で使う剣山、お裁縫の針山、ハリネズミorヤマアラシ、ウニ。イメージはいろいろだろうが、2008年11月のマドリード滞在はそれを極端な形に煮詰めたものだった。
 何しろマドリードにいたのは、のべにしても3日程度。マドリードから毎日のように新幹線AVEやバスを利用し、トレド/セゴビア/コルドバ/セビージャ/コンスエグラなどを巡り歩いた。イベリア半島の地図を開けば、この移動が決して「近郊」の範囲に入らないことは明白だろう。
王の広場1
(バルセロナ・ゴシック地区「王の広場」で)

 それに比べれば、2010年秋のバルセロナ滞在は少し地味だったかもしれない。モンセラート/フィゲラス/ジローナ/タラゴナは、バルセロナ中央駅サンツからせいぜいで2時間の距離。ま、東京に滞在して川越/水戸/鎌倉/小田原/足利と、近郊の名所を走り回った感覚である。
 派手だったのは、バレンシアとマジョルカ島ぐらい。しかしそのマジョルカ島は飛行機をつかっての日帰りだったし、その忙しい日帰り旅行の中にバルデモサ往復のハナレワザまで演じたから、相変わらずクマ蔵は元気一杯でヨーロッパを駆け回っていると言っていいだろう。
ジローナチケット
(バルセロナとジローナの往復チケット。I/Vとあるのが「イダ/ブエルタ」つまり往復のこと)

 こうして2週間にわたるバルセロナ滞在も終幕に近づいた。残り2日、48時間はさすがにバルセロナに踏みとどまって、バルセロナを満喫しなければならない。気がつけばこの滞在記にも、バルセロナの中心「バロック地区」についてはまだ1行も書いていないのである。
 もっとも、その責任は今井君よりもむしろバロック地区にある。要するに「パッとしないから、わざわざ書く気持ちが起こらない」のである。
 何しろ、ゴシック地区で中心的な役割を担うべきカテドラルが、全面工事中。ミサに来た地元のヒトたちだけは受け入れてもらえるが、一般の観光客はといえば、強烈なドリルの騒音と工事現場の喧噪にウンザリして、すぐに退散するのが関の山だった。
 カテドラルからゴシック地区をさらに奥に入ると、狭くて薄暗い中世イメージの街路が続く。ガイドブックお得意/治安情報満載の地区である。「あまり治安は良くないので、裏通りには入らないように、くれぐれもご用心」だったりするのが、うーん、そんなこと言ってたら、マドリードでもバルセロナでもマトモに歩けるところは美術館の中ぐらいになってしまう。
ゴシック地区
(写真を見ると、確かに「ご用心」な感じのゴシック地区)

 カテドラルの裏に「王の広場」があって、新大陸発見直後のコロンブスがイザベラ女王に謁見するために登っていった階段が残っている。中心角90°の扇形の階段である。その前の広場はスケボの若者たちが占拠。ギターケースや帽子を置いて小銭をもらいながら、ギターを演奏してみせるオニーサンやオジサンも多い。
 日曜日のドゥオモ前では「サルダナ」の踊りの輪が出来て、カタルーニャの民族の結びつきをダンスで確かめあうはずなのだが、実際に出かけてみたドゥオモ前では何も起こらない。時間を間違えたのか、ドゥオモが工事中だからサルダナもやらないのか。地元のおばあちゃんたちが楽しそうに踊る笑顔の写真をみて楽しみにしていたから、クマ蔵の失望は大きい。
王の広場2
(王の広場、拡大図)

 今井君は、弾けそうな笑顔のバーチャンとジーチャンが大好き。それが第2次世界大戦やフランコ独裁の厳しすぎる時代を経験してきたカタルーニャのバーチャン&ジーチャンだと思うと、もうそれだけで涙が止まらない。
 もしも「全ヨーロッパで一番好きなバーチャンを3人あげなさい」と言われたら、今井君は一瞬も迷わずに、高らかに宣言する。1人は雪の舞うウィーンの裏町で、涙を流しながら熱心にベルベデーレへの道を教えてくれたおばあちゃん(2009年12月)。どうしておばあちゃんというものは、ヒトに親切にしてくる時にあんなに涙を流すのだろう。
 もう1人は、大雪で交通機関が大混乱したミュンヘンの街で「この雪じゃシュトラーセン・バーンは来ないよ。地下鉄に乗り換えたほうがいいよ」と、わざわざ大雪の道を踏み分けてクマ蔵に教えてくれたおばあちゃん(2005年2月)。寒さのせいか、彼女の目も涙でいっぱいだった。
大雪のミュンヘン
(大雪のミュンヘン。この雪の向こうからバーチャンは現れた)

 シュトラーセン・バーンとは、トラムあるいは路面電車のこと。そう言っているおばあちゃんの背後から、そのおばあちゃん並に年取ったシュトラーセン・バーンが「あたしゃ、このぐらいの雪には負けません」と呟くような感じで頭をふりふり近づいてきた。大雪のニンフェンベルグ城を訪ねた午後のことである。
 2012年、ヨーロッパは再び大寒波である。テレビにヨーロッパの大雪の様子が映るたびに、あのオバーチャンを思い出す。きっとまだまだ元気で、世界中からの旅行者に「これじゃシュトラーセンバーンは来ないよ」と声をかけているに違いない。
ニンフェンベルグ
(大雪のなか、ついにたどり着いたニンフェンベルグ城)

 最後の一人は、ハンガリー・ブダペスト「ゲッレールト温泉ホテル」のエレベーター係のレッジーナばあちゃん。お客一人一人にハンガリー語の「ありがとう」=「ケッセネム、ケッセネム、ケッセネム・セーペン」を何度でも繰り返して、丁寧に送り迎えしてくれた。
 どのおばあちゃんも、20世紀ヨーロッパを立派に生きて抜いてきた。彼女たちの人生の波瀾万丈を思うと、思わず手を取って「こちらこそありがとう」と叫びたくなるぐらいだ。
 娘時代は、ヒトラーにフランコにスターリンの恐怖。オトナになると冷戦と核戦争の恐怖、老年に至ってユーロ暴落と崩壊の危機。それでも彼女たちは満面の笑顔に涙を流しながら、よその大陸からやってきた奇妙奇天烈な中年グマにこんなに親切にしてくれる。
夕暮れのサグラダ
(3回目のサグラダ・ファミリア)

 何だか悲しくなってきたので、「もう一度サグラダ・ファミリアに挨拶してこよう」「ライトアップを見てこよう」と思い立った。3回目のサグラダ・ファミリアである。この2週間、地下鉄もバスも縦横無尽に乗り回して、もうすっかり地元民みたいな態度、移動も威風堂々である。
サグラダ内部
(サグラダファミリア まだ新しいステンドグラス)

 ライトアップと言っても、日本みたいに強烈なライトで明々と照らし出すのではない。何しろ相手は強烈な酸性雨に雨ざらしで、着実に溶解と融解を続ける100年前の建築だ。あてるライトも遠慮がちなのは当然。酔っぱらった日本のオヤジなら「こんなのライトアップじゃねえ」「カネ返せ!!」と叫びそうな、やっているんだかいないんだかギリギリな感じのライトアップだ。
病院
(サグラダ・ファミリア近くの「サンパウ病院」。1902年着工、1930年完成。「芸術には人を癒す力がある」が信念とのこと)

 しかし諸君。これはこれでいいのだ。優しいおばあちゃんたちと同じように、サグラダ・ファミリアのライトアップもこのぐらいソフトなのがいい。ケバケバしいのが良かったら、ケバケバしさをウリにした現代建築がニョキニョキ出現し続ける巨大都市が日本の近くにいくらでもあるはずだ。
 100年前の建築がそのまま残るサグラダ・ファミリア東側が眺められるカフェの、しかも最前列の特等席をクマ蔵は確保した。ここでワインを1本注文。約2時間、ホントのホントの特等席で、完全に日が沈みきるまでサグラダ・ファミリアを満喫できたのである。
カフェからのサグラダ
(カフェの特等席からのサグラダ・ファミリア)


1E(Cd) Alban Berg Quartett:HAYDN/STRING QUARTETS Op. 76
2E(Cd) Hungarian Quartet:BRAHMS/CLARINET QUINTET
3E(Cd) Reiner:VERDI/REQUIEM①
6D(Pl) 国立劇場2月文楽公演第3部:菅原伝授手習鑑/日本振袖始
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