Sun 111023 交響詩「アメリカンおばさま、怒髪天を突く」(ギリシャ紀行14) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 111023 交響詩「アメリカンおばさま、怒髪天を突く」(ギリシャ紀行14)

 タベルナ「アントニーニ」に腰を据えた今井君テーブルからは、「南のタクシースタンド」がよく見えた(スミマセン。この圧倒的交響詩は、昨日の「序曲」の続きです)。「どうも、あのアメリカンおばさまは腹を立てているらしい」と気がついたのが午後3時ごろ。タクシースタンドなのに、全然タクシーが来ないのだ。
 アメリカンおばさまには、気の弱そうなダンナが付き添っている。怒るおばさまを懸命に宥めている様子が、クマ蔵のテーブルからでもよく分かる。しかしアメリカンおばさまの怒りは、みるみるメーターが上がっていく。タクシーが走らなくても、メーターだけが上がることはあるのだ。
 30分も待っただろうか、ついに1台のタクシーがやってきて、おばさまは定石通りドアに手をかけた。走り去られては困るからである。「むんずと」という副詞がこれほど当てはまる力強さは考えられないほど強烈な「むんず」ぶりだったが、おお、タクシーは無情にも走り去ってしまった。「次の予約があるんで」という運転手の無慈悲な笑顔が見えるようである。
迷路のねこ
(南タクシースタンド付近で。このネコは愛想がよかった)

 この出来事のせいで、怒りメーターがどれほど跳ね上がったか、想像するに難くない。おばさまは、両足を30cm程度開けてふんばり、前をシッカと見つめて仁王立ち。両手を腰にかけて肱を張り、強い怒りを表現するwith arms akimboの姿勢をとった。
 電子辞書では挿絵が見られないから、諸君、印刷された紙の辞書でakimboを調べてみたまえ。アメリカンおばさまの怒りの激しさが、挿絵でシッカリ分かるはずだ。
 おそらく友人の別荘のパーティーに呼ばれたのだろう。ちょっと頑張って着飾った「小金持ちアメリカン」な様子のオバサマに、真夏のギリシャの午後、殺人的灼熱の太陽が容赦なく照りつける。
アントニーニからの眺め
(アントニーニ店内から南タクシースタンド方向を望む)

 そのまま、また20分ほどタクシーは現れない。灼熱の太陽に照らされなくとも、オバサマの内側からメラメラ燃えさかる怒りの炎は、隣に呆然と立ち尽くす気の弱いダンナを焼き尽くすほどだ。
 この成り行きを最後まで見届けなければ、今井君も帰ることができない。アントニーニのイカもタコも食べ尽くしたので、白ワインをもう1本注文。店のオジサンに呆れられながらも、自分が何故この場を立ち去れないのか、自分でもよくわからない。
 そこへ、とうとうタクシーが1台到着。Akimboなアメリカンおばさまは、さっきの2倍の迫力で「むんず」とドアをつかむ。何がどうあろうと、今度は逃がさない。安達ケ原の山姥でも、ここまで迫力満点の「むんず」はできない。そういう勢いである。
 おばさまが乗り込み、ダンナがそれに続いた。ドアが閉まり、おお、どうやらついにコトの決着はついたようだ。あとは、ダンナがどう宥めるか、パーティーに遅れた言い訳をダンナがどう考えるか、その程度のことで、問題は全て落着しそうに思われた。
夕暮れの風車
(ミコノス、夕暮れの風車群)

 ところが、である。そこへ横ヤリが1本入った。列の後ろにいた若い男が一人、運転手に掛け合って「もう1人、相乗りさせてくれないか?」と頼んでみたのである。サーフィンに訪れたらしく、それらしい大きな荷物を3つも4つも抱えて悪戦苦闘の様子だ。
 確かに彼だって、すでに1時間近く待っている。客を5人乗せられる大型タクシーに、2人だけ乗せて贅沢に走り去られては、黙って見過ごすわけにはいかない。「相乗り」は、ミコノスではむしろ常識。これを拒絶するほうが非常識なのだ。
 おそらくアメリカンおばさまも、彼女の怒りを抑制するのがやっとのダンナも、この島独特の常識&非常識を理解していたのであろう。ペコペコ頭を下げてお願いする若者の礼儀正しさに折れてしまった。
 タクシーの後ろのトランクが開けられ、若者は彼の汚らしい荷物を次々にトランクに投げ込み始めた。それは構わない。というか、相乗りが許可された以上、むしろ当たり前の行動である。
迷路
(ミコノス、夕暮れの迷路 1)

 しかし再び「ところが」である。そこに更なる伏兵が現れた。若者の後ろに並んでいた家族連れである。ベビーカーを1台押している。幼児も2人連れている。パパに、ママ、幼児2人に乳児1名、合計5人である。
 若者の相乗りが許されたなら、自分たちだって相乗りを許可される資格は十分にある。だって、幼児に乳児を計3人も連れ、この殺人的炎天下にもう1時間も並んでいて、万が一のコトがあったら、どうしてくれると言うんだ。
 一方のアメリカンakimboおばさまは、誰が見ても「パーティーに行きます」という着飾り方。いくらアメリカン・ダラーをフンダンにちらつかせて札束攻撃したって、今やアメリカン・ダラーの破壊力は、ユーロにも円にも人民元にも及ばない。ましてや、炎天下で泣き叫ぶ幼児と乳児を「ウゼーんだよ」と切り捨てるほどの、乱暴な愚かさもない。
夕暮れのオルノス
(夕暮れのオルノス海岸。KIVOTOSのバルコニーから)

 タクシーのドアは再び開かれ、5人乗れば満員の車内は、オバサマ1・ダンナ1・ワカモノ1・家族連れ5で、合計8名になった。トランクには、サーフィンボード、その他のサーフィン用品、ベビーカー、その他の乳幼児用品満載のスーツケース。トランクの蓋も閉まらないし、タクシーのドアも閉まらない。そんなのは「火を見るよりアキラカ」である。
 だから、タクシーはいつまで立っても発進しない。「いったい、誰が先にあきらめて下車するか」の熱い討論が繰り広げられているのである。
 若者は1人だから、降りたとしても事態は全く改善しない。降りるとすれば、オバサマ&ダンナか、伏兵の家族連れか。家族連れには弱者が3人含まれ、しかもおそらく「飛行機に乗り遅れそう」なのだ。それに対してakimboおばさま+気の弱いダンナが遅れるのは、せいぜい友人のパーティーに過ぎない。
迷路で
(ミコノス、夕暮れの迷路 2)

 こうなれば、降りていただくのはオバサマ&ダンナである。おそらく、忙しい運転手も業を煮やして「早くしてくれないかな」「急ぎじゃないんだったら、早く降りてくれないとラチがあかないじゃん」の類いの暴言を、akimboちゃんに投げかけたに違いない。
 まるでトコロテンを押し出すように、右のドアから乗り込んだオバサマは、左のドアから押し出されて車外に出た。ダンナも慌ててその後を追う。諸君、オバサマの怒髪が天を突くサマが、50mも離れたアントニーニのクマ蔵からもハッキリ目撃できたのは、まさにこの時。「その時、歴史が動いた」であるね。
迷路のカップル
(迷路のカップル)

 無慈悲にもタクシーは、残る6人を乗せて発進。タクシースタンドには怒髪チャン&ダンナが残された。次のタクシーは当分やってきそうにない。しかも、2人の後ろには、またまたトコロテン乗車を狙うたくさんの伏兵たちが、虎視眈々とチャンスを窺っている。
 諸君、こんな状況では今井君だって、ますますアントニーニの席を立てないではないか。最終的な決着がどう着くのか。せっかくならそこまで見届けないで帰っては、日本の武士の一分が立たぬでござる。すでに2本目のワインもカラッポになったが、まだまだ帰るわけにはいかない。
 とうとう怒髪オバサマは、「タクシー会社に抗議の電話をかける」という決断を下したらしい。しかしタクシー会社は忙しすぎて、または怠惰の度が過ぎて、知らないケータイからの電話なんかに出るはずがない。
 オバサマは何度かトライした後で、近くの雑貨屋の公衆電話から怒りの電話をかけることにしたようだ。オロオロしながらダンナが後を追うが、さすがakimboちゃんはもうダンナなんか眼中にない。「何よりも、ダラしないダンナが悪い」の怒りが、ダンナにメラメラ向けられ始めている。
迷路ネコ1
(迷路ネコ 1)

 公衆電話からの怒りの電話が、果たして怒りの対象に届いたかどうか、クマ蔵の知る由もない。クマ蔵に分かったのは、オバサマがタクシースタンドを離れた直後に、何故か数台のタクシーが連続して到着し、本来オバサマの後ろだった伏兵たちを次から次へと乗せて走り去ったということ。つまり、あと2分か3分耐えて待てば、オバサマは何とかパーティーに遅れずにたどり着けたんじゃないか、ということだけである。
 電話はとうとう繋がらなかったらしく、怒り心頭に発して天を仰いだオバサマは、ダンナばかりか雑貨屋の店主にも背中を支えられて、悲嘆の姿勢でこの場を去っていった。パーティーはおそらくお流れ。太陽の熱より、自分の体内で燃えさかる怒りの熱で熱中症を発症。おそらく
「もう2度とミコノスなんかにくるものか」
「ワタクシだけじゃない、息子にも、娘にも、マゴやヒマゴの世代にまでこの恨みを語り継ぎ、むろん世間にも広くこの恨みを語り広めてくれんず」
「わが恨み、骨髄に達せり。ミコノスを廃墟にしてくれんず」
と決意して、この島を後にしたものと思われる。
迷路ネコ2
(迷路ネコ 2)

 「達せり」の「り」は完了と存在・継続の助動詞。已然形接続。正確には「サ変動詞の未然形、四段動詞の已然形に接続」。略して「サ未・四已(さみしい)完了の助動詞『り』と覚えよう」と予備校の古文講師は教えるはずだ。
 「くれんず」は「…してくれんとす」「…してくれんと欲す」からの転訛。歌舞伎や文楽を見ていれば、恨み骨髄に達した武者ばかりか、花魁にダマされた町人でも頻繁に口にする。
 ましてやアメリカン怒髪オバサマにおいておや。「おいておや」は漢文でも使われる定型表現。おやおや、オバサマは、自ら犠牲となりながら、接近するセンター試験の古文漢文対策を我々に施してくれることも忘れなかったのである。
迷路ネコ3
(迷路ネコ 3)

 もちろん、芥川龍之介「羅生門」に倣って、「オバサマの行方は、誰も知らない」と、この一章を締めくくることも、忘れてはならない。しかし諸君、それ以上に、この仁王立ちのアメリカンおばさまに、南欧経済危機の真っただ中に立たされた21世紀アメリカの、縮図ないしは戯画を感じないだろうか。
 ここには、まず汲めども尽きぬアメリカ的豊かさは存在しない。資源はタクシー台数と同じヒト桁に限定され、それを平等に分かち合うには、炎暑の中でひたすら忍従し、与えられた宿命をひたすら耐え忍ぶしかない。アメリカ的な規律も倫理も道徳も、ルールも文脈も文法も、ほぼ完全に無視される。
 それが暴力的な無視なら、毅然と仁王立ちでアメリカ的に立ち向かうことができる。しかし南欧の無視は、小ズルいニヤニヤ笑いとナアナア優先。Akimboな態度で「順番を守りなさい」「ルールを大切にしなさい」「割り込みは恥ずべきことです」と20世紀的倫理を押しつけても、「人類の歴史はナアナアの歴史」「そんなにカリカリしなさんな」という上から目線でゴマカされる。
 だからアメリカンおばさまは、仁王立ちでいながら、砂に足をとられて進めない悪夢に苛まれる。無力感と不安に打ちひしがれ、号泣しつつその場に崩れ落ちそうなのである。
 ギリシャもイタリアもポルトガルも、いくら崩壊してもどうせニヤニヤしながら立ち直って、「スミマセンね、毎度ご迷惑をおかけします」と頭を掻いて見せるだけだ。自らの道徳や倫理を、偉大な先輩たちに押しつけようと歯ぎしりし、失敗して崩れ落ちるのは結局のところ新参者のほうなのである。

1E(Cd) Haydon Trio Eisenstadt:JOSEPH HAYDN:SCOTTISH SONGS 14/18
2E(Cd) Haydon Trio Eisenstadt:JOSEPH HAYDN:SCOTTISH SONGS 15/18
3E(Cd) Haydon Trio Eisenstadt:JOSEPH HAYDN:SCOTTISH SONGS 16/18
4E(Cd) Haydon Trio Eisenstadt:JOSEPH HAYDN:SCOTTISH SONGS 17/18
5E(Cd) Haydon Trio Eisenstadt:JOSEPH HAYDN:SCOTTISH SONGS 18/18
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