Thu 110728 熊谷から高松に移動 昔なら1日がかりの大旅行だった 高松での講演会 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 110728 熊谷から高松に移動 昔なら1日がかりの大旅行だった 高松での講演会

 8月6日、猛暑の熊谷を11時に出て、クマ蔵は香川県高松に向かった。この時点での熊谷はまだまだ「これが熊谷の猛暑か!!」と納得させるほどのものではなかったが、翌々日からの38℃を超える猛暑を予感させる十分な日差しと熱気に溢れていて、さすがクマ蔵が「熱いぞ、熊谷」に火をつけただけのことはあったようだ。おお、何とも迷惑な火付けグマである。
 熊谷から高松に向かうのは、つい30年前なら1日がかりの大移動だったはずだ。もちろん30年前だって「羽田から飛行機で」という選択肢はあったのだが、当時の飛行機はあくまで超お金持ちの乗り物。一般庶民が気軽に乗れるようなシロモノではなかったのである。
 30年前には、上越新幹線だってなかったのだから、熊谷から上野まで、まず新潟から来る急行「佐渡」で移動。上越線には、昭和38年豪雪時の「急行『越路』112時間遅れて上野に到着、列車屋根には積雪1m」という満身創痍の記憶もあって、熊谷から上野の移動にも、それ相当の覚悟が必要だった。
 ロンドンは今や暴動の真っただ中であるが、当時の首都圏では暴動は日常茶飯事だったと言ってもいい。途中の上尾駅は、1973年3月13日「ストライキ権ストライキ」の国労&動労遵法闘争時の「駅焼き討ち」という痛い記憶も残る。世に言う「上尾事件」である。上尾で始まった暴動は、高崎線の北本・桶川・鴻巣の各駅にも飛び火。急行「妙高」、特急「とき」、東北線急行「まつしま」にも被害が拡大した。
 「宇都宮線」などという軟弱な命名は当時はなくて、上野から青森まで一直線の「東北本線」。「東北本線という呼び方では、栃木県も何だか東北地方みたいでイヤだ」、そういう発想で、いつの間にか「宇都宮線」にすり替えられてしまったが、今でも正式には上野から青森までは「東北本線」である。
 似たような「東北は遥かな遠い土地」という発想は、今もなお「陸前高田の松の木を燃やしたら、京都の大文字が放射能に汚染される」とか、東海テレビ「ぴーかんてれび」→「あやしいおコメ、セシウムさん」に見え隠れする。数日前の神戸のタクシーの運転手さんだって、「西日本は、放射能とか地震とか、そういう心配がなくてエエですわ」と豪語して憚らなかった。
高松1
(高松での講演会 1)

 上尾暴動は、国鉄総裁・磯崎叡と動労委員長・目黒今朝次郎のトップ会談でも収まらなかった。今井君のパパ=今井三千雄は、当時「国鉄土崎工場」の労働組合対策責任者。スト権ストや遵法闘争の解決が出来なければ、明日にでもクビになりかねない中間管理職であったから、コドモの今井君もテレビにかじりついて事態の推移を懸命に見守ったものである。
 あの時に活躍したのが海部俊樹・官房副長官である。東海高校→早稲田大学第2法学部卒。まだ政治家キャリアの浅い40歳代前半だったが、国労&動労を後押しする日本共産党の大物・金子満広を向こうに回して、一歩も譲らない。
 おお、コドモの今井君には、テレビに出ずっぱりの海部クンがカッコよく見えたし、「ならば海部クンの母校・早稲田大学というのも悪くはないな」と思い始めた一瞬であった。
 その後、早稲田大学第2法学部は廃止。金子満広は76年総選挙で落選。時代はバブルまっしぐら。上尾暴動のことなんか、今や誰も記憶していない。
 海部俊樹が「凡庸な首相」としてその後どれほどマスコミでバカにされても、今井君だけは心の中でいつも海部クンを応援し続けていた。どうしても今井君は判官びいきなのである。
 20世紀も終わろうとするころ、今井君は名古屋に向かう新幹線グリーン車の中で自民党の大物と頻繁に遭遇。森喜朗、桜内義雄、野中広務、安倍晋三。そして、懐かしや海部俊樹(相変わらずMac君は「夏貸家」だョ)。みんなうちひしがれた様子で、SPはおろか秘書も連れずに、一人でヨレヨレの書類に見入っていたものである。
高松2
(高松での講演会 2)

 ありゃま、話題はどこまでもそれていく。当時、そんなにコワい思いをして上野に到着すれば、まず山手線か京浜東北線で東京駅に移動。東京駅から0系新幹線に乗って岡山まで4時間。岡山から宇野まで国鉄・宇野線で1時間かかる。
 宇野から高松まで「宇高連絡船」で再び1時間。瀬戸内海のユルい波に揺られて、眠くなくても居眠りして行かなければならない。途中、小豆島の島影を見ながら、誰もが「24のヒトミ、か…」と呟いたものだった。その宇高連絡船も昭和63年に廃止、すでに廃止から20年が経過している。
 こういうふうで、埼玉県熊谷から香川県高松までの移動は、本来なら丸々1日がかりの大旅行だった。「ひとときの盆帰り(ブログ内検索したまえ)」をしようにも、それがもしコドモたちを連れての旅行なら、少なくとも10回の夫婦ゲンカを経なければ、たどり着けない遥かな旅路だったである。
高松の絵
(遥かな高松。控え室の絵には、高松港を出て行く船が描かれていた。背景の平らな島は屋島である)

 本州と四国を結ぶ連絡橋を3本にするのか、それともそんな贅沢はヤメにして1ルートで我慢するのか。バブル真っただ中の日本では「そんなの無駄だ」と主張するマスコミと、「イヤ、どうしても3ルートを確保」という地元の間で、激しいバトルになっていた。
 そういうときでも、今井君の気持ちは常に地元サイド。「ムダ削減」などというのは、ムダなものをタップリ作ってもらってヌクヌク生きている首都圏のヒトビトの上から目線の発想に過ぎない。
 ムダかどうかは地元が判断すべきことであって、首都圏のヒトビトが「ムダ」と切り捨てるものを、地元のヒトビトは、明治時代はおろか江戸時代からヒタスラ夢に見続けていたのである。地元200年来の悲願を、ニヤニヤ笑いを浮かべて「そんなのムダじゃないか」「2位じゃイケナイんですか?」とカンタンに切り捨てるのは愚かである。
高松3
(高松での講演会 3)

 高松での講演会、18時半開始、20時終了。出席者250名。高松にも東進加盟校は少なくないが、この日の主催校は、2008年に講演会中の今井君が激しく転倒して手首をケガした時の懐かしい加盟校である(ブログ内検索で「屋島 大転倒」を検索すれば、ケガ直後の痛々しい手首の写真が見られるはずだ)。
 当時は屋島校1校舎だけだったが、今は高松天神前に新しく校舎を作って大健闘中である。保護者も50名。中3生も50名。こういう構成も素晴らしい。「60秒に1度の大爆笑」はこの日も健在で、講演はいつも通りの大成功裡に無事終了。講演後、会場設営に協力してくれた20名ほどの生徒と写真撮影会も実施。今日もまた最高の講演会になった。

1E(Cd) Holliger:BACH/3 OBOENKONZERTE
2E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 1/4
3E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 2/4
4E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 3/4
5E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 4/4
total m139 y758 d6719