Sat 110430 馬でも登れるヒラルダ アルカサルは大般若で済ませる 夕暮れのヒラルダ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 110430 馬でも登れるヒラルダ アルカサルは大般若で済ませる 夕暮れのヒラルダ

 セビージャ「ヒラルダの塔」が他の塔と違うのは「馬でも登れる」という点である。中は圧倒的に広い螺旋状の通路。一般の教会の塔のような息苦しさは全くない。ホントに馬でも登れる設計で、ちょっと我慢してもらえるなら、デカイ象さんでも登れそうである。
 日本のクマじいにとって、これほど嬉しいことはなかなか考えられない。今井君は何しろ身体が固い。前屈なんか、いくらマジメに前屈しても、両手は膝のところまでしか届かない。頑張ってキックしても、足先は地面から50cmのところまでしか上がらない。鋼鉄の延べ棒みたいに固まって、真っ赤に錆び付いてしまったみたいである。
 この固い身体で教会の塔に登るということになれば、毎回ほとんど命がけである。登るヒトと降りるヒトが、すれ違えないほど狭く息苦しい石の螺旋階段。あれを思うたびに息がつまる思いがする。
 ならばヤメればいいのに、「ちょっとチャレンジしてみるか」というイタズラ心を抑えきれない。イタリア・クレモナの教会とか、ウィーン・シュテファン寺院とか、アイルランド・キルデアの教会の塔とか。登り始めて15秒で後悔するくせに、1回の旅行で2回の割合で、塔に登っては後悔を繰り返す。
夕暮れのかてどらる
(セビージャ、夕暮れが迫るカテドラル 1)

 ところが、セビージャ・ヒラルダの塔では、そういう後悔とは一切無関係である。馬が登れる設計なのだから、象でもクマでもラクラク登れる。塔に登って後悔のないクマというものを、生まれて初めて経験した。
 アンダルシアの白い街の風景もよかったし、何よりよかったのは遠足のコドモたちがいなかったことである。中高生でも小学生でも、とにかく集団で行動するコドモたちと一緒になると、息苦しさは数倍になる。
 この日の午後はいったい何のハズミか、団体行動グループはツアー旅行の団体を含めて、一切存在しなかった。おお、こうなると、風通しが最高であるね。快晴、さすがイベリア半島も南端に近いセビージャであって、11月の塔の上に吹く風も爽快である。大きく息を吸い込んで、大満足で塔の上に30分。完全に極楽とんぼグマと化して、時の経つのを忘れてしまった。
ひらるだの塔
(セビージャ、夕暮れが迫るカテドラル 2)

 こうして、午後3時に近づいた。セビージャ最高の見所であるアルカサルに向かう頃には、少し日が翳り始めた。11月のヨーロッパは、日の翳るのが早い。12月なら3時には薄暗くなり、4時過ぎには真っ暗になる。プラハもブダペストもロンドンそうだが、スペインみたいな南国でも例外ではない。
 そういうわけで、最後に残ったアルカサルは、駆け足で回ってゴマカすことにした。「大般若で済ませる」というヤツである。今ではもう完全な死語であって、国語の先生でも知っているヒトは多くないと思うが、「アイツは何をやらせても大般若なので困る」とか「今回は時間もないし、大般若で済ませておきますか」などと、明治大正のヒトはよく使ったものである。
アルカサルの庭園
(セビージャ、アルカサルの庭園。11月だがまだ花が咲き、それに紅葉が混じる)

 内田百閒に「大般若」という随筆があって、明治22年生まれの彼の幼少時代の思い出として、彼の生家の造り酒屋での大般若会について書いている。お坊さんが近郷近在からおおぜい集合し、ビックリするほどほど多くの経文を柳行李で運び込んで、大広間にずらずら居並んだ坊さんたちが、てんでんバラバラ、銘々勝手にお経を読むのである。
 その読み方が「大般若で済ませる」ということらしい。アコーディオン状の折り本にした経文を上にかざし、バラバラと落ちてくるページを適当なところで受け止めて、そのページだけ何だかムニャムニャ音読する。そしてまた経文を上にかざし、バラバラとページを落として、また適当なページだけ適当にムニャムニャやる。そうやって何度か繰り返して、それで1冊読み上げたことにする。
 だから、ホントにテキトーに飛ばし読みをしているに過ぎないが、たくさんのお坊さんが集まって読んでいるのだから、みんなの力を合わせれば、チャンと全部読んでいるのと同じことになる。おお、ありがたや。大いにありがたや。全ページをしっかり読まなくても、こうやって「大般若で済ませて」しまっても、ありがたみはちっとも変わらない。
 そこいら中でお経のページがあんまり激しくバラバラ&バラバラするから、お坊さんが集まった大広間には、そのバラバラのせいで風が湧き起こる。その風を浴びるだけで十分ゴリヤクがある。おばあちゃんやおじいちゃんは、その風を浴び、坊さんたちのムニャムニャ集合体に何となく包まれて、「ありがたや&ありがたや」ということになる。
セビージャの河
(セビージャ、夕暮れが迫るグアダルキビル河。左に写っているのが、目指す「Kiosco de las Flores」である)

 流行中なんだか失笑されているんだか、詳しくはよくわからないが、まさに21世紀のいろいろな速読法とソックリの荒技である。
「キミたちの目はカメラと同じなんだ。1ページ1秒で、パシャパシャ写真を撮るような気持ちでページをめくりたまえ」
「脳には無限の能力があって、1ページ1秒でもその内容をほとんど全て把握できるのだ」
「要は、信じる能力があるかどうかだ」
である。
 結局、人間というものは、明治から150年経過しても大して進歩していないらしい。相変わらず「大般若で済ませちゃえ」で、ページの風に吹かれて「ありがたや&ありがたや」をやっているのである。
河と黄金の塔
(グアダルキビル河と、黄金の塔)

 セビージャのクマ蔵も、一番の見所のアルカサルで「大般若でいいや」ということにした。ケータイのバッテリーも切れそうだったので、写真も3枚しか撮れない。となれば、大般若から「驚異の速読法」へと変身し、「よし、ボクチンの目玉はカメラなんだ。1カ所1秒で記憶に留めていこう。パシャ!! パシャ!!! パシャ!!!!」という荒技に、遠慮なく移行することにした。
 こうして、最高の見所だろうとなんだろうと、アルカサルは30分でやっつけてしまった。よおし、全て記憶に残った。「1ページ1ページ♨1行1行読んでるなんて時代遅れだよん」というヤツである。今回はそういう「大般若でOK」ということにしておいて、またすぐここへ来ることを楽しみに、大雑把に把握しただけで満足するのも悪くない。
 そういうふうに自分を言いくるめて、何より大切なメシと酒を求めてセビージャを右往左往した。グアダルキビル河は、昨日のコルドバとはうってかわって、美しい淡緑色に輝いている。サン・テルモ橋を渡って、目指したのは川沿いの「キオスコ・デ・ラス・フローレス Kiosco de las Flores」。河の対岸に「黄金の塔」を眺める絶好のテラスレストランである。
レストランからの眺め
(Kiosco de las Floresからの眺め)

 ただし、絶好の眺めが必ずしも気持ちのいいレストランの指標にはならない。特にこの日は、入店が16時。ランチタイムは16時半までだから、ランチのお客はほとんどが店を後にし、ディナーまではまだ4時間もあるという、まさにハズレの時間帯である。
 最後まで残っていた1組が帰ってしまうと、冷たい河風の沁みるテラスに残された今井君はヒョーロクダマの帝王、同時にトーヘンボクの見本。そういうたいへん寂しく厳しい立場で、店員さんの冷たい視線を一身に浴びることになってしまった。
夕暮れ
(夕暮れのせまるヒラルダの塔)

 あんまりキツいので、この店は白ワイン1本で早々に退散。薄ら寒い気持ちでカテドラル前に舞い戻り、「夕暮れのヒラルダの塔を間近に眺めながらもう1杯」ということにした。地図を眺めて確かめると、ホテル「ドニャ・マリア」近くの店だったと思う。
 観光客はもうみんな引き上げた後である。静まり返った広場では、観光用馬車の馬たちが立ち尽くし、11月の夕暮れの冷たい風が裏通りを吹き抜け、見上げるヒラルダの塔はいっそう輝きを増している。
 しかし、帰りの電車の時間まで、まだ1時間ある。注文した安い赤ワイン1本をのんびりカラにしながら、「あーあ、アルカサルをチャンと見に、また近いうちセビージャに来なくちゃな」と、ニヤニヤしながら考えていた。
観光馬車
(まもなく「本日営業終了」の白馬くん)


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