Fri 110311 英雄たちの活躍に、手に汗を握る 今こそ分水嶺か 語り部になりたまえ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 110311 英雄たちの活躍に、手に汗を握る 今こそ分水嶺か 語り部になりたまえ

 諸君。17日の首都圏は、ついに大規模停電の危機を乗り越えた。日本人の結束は、やっぱり素晴らしいのである。再びクマの涙が止まらない。国民が結束して帰宅を急ぎ、不要不急の電源を切り、暖房を我慢し、一つでも多くの照明器具を消して、耐えた。耐えて、大規模停電の危機を乗り切ったのである。
 3月17日の17時から21時まで、あの4時間が分水嶺になったようだ。事態は急激に好転し始めた。分水嶺を超えて、事態が好転し始めれば、この勢いは止まらない。悲観的なことばかり言うヒトや、自分たちだけ日本脱出をはかるような、そんな冷淡なヒトビトは放っておけばいい。我々は何が何でもここに踏みとどまって、一致協力してここを守り抜くだけである。
大勉強1
(大阪・新世界にて。受験生諸君、今こそ「大勉強」の時だ)

 どんな場合でも、小さな危機を一つ乗り越えるのが、分水嶺になる。自衛隊の決死の放水が成功したらしいのも、分水嶺になるべき危機の克服。東京消防庁の決死の放水も、東京電力の決死の送電線敷設作業も、すべて分水嶺としての危機の克服である。
 今井クマ蔵は、若い諸君には今テレビにかじりついていてほしい。テレビにかじりついて、日本の英雄たちの決死の活躍を、一瞬たりとも見逃してほしくない。なかなか始まらない放水、なかなか飛び立たないヘリコプター、なかなか繋がらない電源と電線。そうした「なかなか…しない」に苛立つようでは、精神年齢が低すぎるのだ。
 決死の行動に時間がかかるのは、当たり前である。彼らに命を守ってもらっている我々の仕事は、彼らを見つめ、彼らの無事を祈り、彼らを称賛し、喝采することである。半日でも丸一日でも、ひたすら彼らの行動を待ち、彼らの成功に涙し、全力で喝采しようではないか。テレビの前の喝采であっても、その喝采は確実に彼らを勇気づけるのである。
いつかまた
(大阪・新世界にて。いつかまた、こんな店で皆で笑い合いたい)

 17日、ヘリコプターからの放水は、冷却効果云々よりも、我々を勇気づけるのにこれ以上のものはなかった。警視庁の高圧放水車だって、うまくはいかなくてもクマ蔵はその勇気に涙が止まらなかった。18日、自衛隊の勇気漲る放水活動は、その後の東京消防庁の決死の大活躍につながった。
 そして今日19日、ついに消防庁による放水成功で、事態はどうやら分水嶺を超えた。長く真っ暗な恐怖のトンネルの向こうに、かすかに明かりが灯るのが見えた。「予断を許さない」という表現の中にさえ、「よおし!!」と固い握りコブシを振り下ろす、大きな歓喜があった。
 クマ蔵は、この危機が全て去った後で再びヨーロッパに出かける予定。しかし、これまで感じることのなかった素晴らしい誇りを胸に秘めて、ヨーロッパを隅々までのし歩きたい。我々日本人の中には、これほどの自己犠牲をモノともせず、国民を守ろうとする英雄が多数存在するのだ。これを誇らなくて、いったい何を誇りにすると言うのだ。
楽しいことを
(大阪・新世界にて。今は「楽しいこと」だけ考えるべし)

 クマ蔵はバカだから、クマと同じぐらい臆病で、クマと同じぐらい興奮しやすくて、クマと同じぐらい乱暴である。17日夕方、綾瀬の公開授業が中止と決まる前に、
「生徒の安全確保が100%と言えない中で、講演実施は大丈夫?」
「国民がまとまって精一杯の節電に努力している時、自分たちだけ照明と暖房をつけて実施するのは、どうなんだ?」
「今は、『我々も節電に精一杯の協力をする』『国民の英雄たちの活動を、みんなで固唾を飲んで見守る』ことのほうが、教育効果は高いんじゃないか」
「ヘタをすれば、生徒に罪悪感を感じさせるんじゃないか」
そう激しく思い悩むうちに、こっそり号泣してしまった。もしプロ野球開催を強行すれば、きっと観客もスタンドで、選手はグラウンドで、同じように号泣するはずである。
めでたいことを
(大阪・新世界にて。今は「めでたいこと」だけ考えるべし)

 諸君。辛抱強くテレビを見続けたまえ。英雄たちの決死の活躍を、しっかりマブタの裏に焼き付けて、10年後、20年後、30年後、諸君の子供や孫に語り継ぎたまえ。語り継ぐためには、子供や孫がいなければならないが、まあ、子供や孫は放っておけばそのうち出来る。
 我々は語り部である。語り部が語り継ぐに値する英雄的な仕事が目の前で展開されているときに、ふと我慢が出来なくなって「いつまで待たせるんだ?」「時間のムダだ」などと叫ぶのは、やっぱり幼いのである。グルメ番組やプロ野球やバラエティがなくては我慢できないのは、オモチャやお菓子がないとムクれてしまう幼児と同じことである。
こてこて
(大阪・新世界にて。今は「コテコテなこと」だけ考えるべし)

 受験生諸君は、もちろんテレビにかじりついているわけにはいかないかもしれない。しかし、教育効果から考えても、いまテレビにかじりついて、いろいろなことを考え、自らの将来のことを考えるのは、諸君の将来にとって素晴らしいことである。
 英雄は、被災者の避難所にもいる。医師も、ナースも、薬剤師も、町役場の公務員も、ボランティアも、床屋さんも、ガソリンスタンドの従業員も、コンビニの店主も、物流業者も、避難民自身も、クマ蔵にはみな英雄に見える。いや、結束して首都圏大規模停電を乗り越えた国民自身、全員が英雄である。
 将来、自分がどんな英雄になるのか。それを考え、今この苦難の時期に自分が英雄として八面六臂の活躍が出来ないことに、悔しい涙を流すこと。特に首都圏の諸君は、今井なんかの講演会に無理して出席するより、今はその方がずっと教育的なのかもしれない。
バイス
(日本のバイスキャプテン・大阪は元気だ 1)

 いつかこのブログにも書いたが、内田百閒に「分水嶺」という随筆がある。分水嶺というと、何だか峨々たる険しい山脈をイメージするが、実は違うのだ。乗り鉄だった百閒は言う。ごく平凡な、気の抜けるほど平凡な山道を汽車が走っていて、別に「決定的な一線を超えた」という実感はないのに、気がつくと水の流れが反対向きになっている。分水嶺とはそのようなものだ、というのである。
 クマ蔵は愚かだからか、3月17日こそが大きな分水嶺だったと信じて疑わない。17日、東北の被災地が容赦ない寒さに襲われた1日である。自衛隊ヘリコプターからの水が西風に吹き払われて目標になかなか届かなかった日である。その映像に重なるように、首都圏大規模停電の恐れに直面して、大臣が涙ながらに国民に節電を訴えたのは、17日17時であった。
 一縷の望みをかけた警視庁の高圧放水車の撤退が伝えられた夜。東北地方に物資が届かない、水もない、食料もない、医薬品もない、燃料も尽きかけている。物流業者が被災地域に入ろうとしない。外国人は一斉に首都圏脱出を始めた。アメリカは80km以内からの退避勧告を発令。あの夜、何もかもが、まさに八方ふさがりに見えた。
ビリケンさん
(日本のバイスキャプテン・大阪は元気だ 2)

 分水嶺は、どうやらあそこだったのである。今井クマ蔵は、60歳になっても70歳になっても、「分水嶺とは何か」を語り継ごうと思っている。あの息苦しい時間帯を境に、物資は流れ始め、高速道路はつながり、港湾施設は整い、人は優しくなり始めた。
 「買いだめはヤメましょう」「買いだめしたものも被災地に送りましょう」。そう訴えかけた最初は、受験生の世代だった。切迫した17日の夜こそ、我々は実は大きな分水嶺に到達していたのだ。
 この分水嶺は、ただ単に東日本大震災の分水嶺であったばかりではないのかもしれない。事態はまだ極めて深刻であって、「ピンチはチャンスでもある」という発言は、今もなお不謹慎として遠ざけなければならない状況にある。しかし、どうもクマどんには、この分水嶺は1990年代の始めから日本を包み込んでいたさらにもっと大きな危機からの分水嶺であるように思えてならない。
 人が誰も優しくなくて、お互いの行動全てを冷笑し失笑し、お互いに舌打ちしあい睨みあい、自らの苦境を訴えることばかりに熱心で、支え合って事態を打開することに冷淡であり続けた時代からの、大きな分水嶺かもしれないのだ。
 自己犠牲をいとわないヒトビトの活動を、今日もまたテレビにかじりついて見つめながら、クマどんは涙し、涙はなかなか止まらず、予備校講師などという存在がどれほど無力かを痛感し、しかし「諸君、我々は分水嶺を越えたのだ」と発言することに、自分のわずかな存在意義を感ずるのである。
大勉強2
(受験生諸君に告ぐ。今こそ大勉強だ)

 受験生諸君。今は勉強だ。大勉強だ。キャプテン・東京が傷ついている今、頼りになるバイスキャプテンの大阪が元気に日本を支えようとしている。札幌だって福岡だって、しっかり支えていてくれている。いまボランティアに出かけても、知識も経験もない諸君はかえって足手まといになるだけだとすれば、諸君、今はひたすら猛勉強に励みたまえ。
 その際、暖房は消す。照明も控えめに。VOD利用でどんどん進むもよし。懐中電灯でだって、単語集を1冊開けば、それだけで勉強はできる。数学や物理なら、眼を閉じて難問の解法を考えるだけでいいはずだから、照明さえ不要なのだ。
 そして、諸君。これから50年後、目の前の孫たちに、
「大震災のとき、おじいちゃんは(おばあちゃんは)懐中電灯で単語集をどんどん覚えたもんだ」
「照明も暖房もなくたって、布団にくるまって数学の難問を1日5問ずつ、ソラで解いていったもんだ」
「真っ暗闇だったけど、ラジオの英会話講座を繰り返し繰り返し聞いたもんだ。あの時、リスニング力が一気に伸びた。話せるようになったのもあの時だ」
語り部として、そう語りたまえ。まだ時期尚早だが、「ピンチは、実はチャンスだった」と50年後に語ることになる、その可能性が今いくらでもあるのだ。