Sun 110220 (第991回 カウントダウン9) 電車内で叱られる 優しさの本質に接近 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 110220 (第991回 カウントダウン9) 電車内で叱られる 優しさの本質に接近

 悪いことは出来ないもので、一週間ほど前の記事で「名古屋オバサマ宴会」の悪口を書いていたら、まさに書いている真っ最中に、同じような年格好のオバサマにキツく叱られてしまった。講演会で千葉県成田市に向かう普通列車グリーン車の中での出来事である。
 何しろ今井君はPCの扱いがうまくないから、電車の中でPCを使っていると、キーをたたく指に余計な力が入る。膝の上にカバンを載せ、カバンの上に愛用のMacちゃんを載っけて、Macちゃんが落ちないように気をつけながら、揺れる2階建て車両の中で、やっとのことでキーを叩いていくのだ。
SOL
(TOKYO-FM「スクールオブロック」の今井ページ。制作者に深く感謝する)

 夕方の静まり返った普通電車のグリーン車の中で、ほとんど無限にカタカタ&カタカタいう音が、よっぽど耳障りだったのだろう。50歳半ばのオバサマだったが、向こうの席からムクッと立ち上がったと思うと「あなた、ちょっと、静かにしなさいよ」と来た。電車が千葉を出てまもなく、四街道の駅を過ぎたあたりであった。
「こういう場所で、そういうものを使うときは、チャンと周囲のヒトに遠慮しなきゃイケナイでしょ?」
オバサマは激しく怒っておられた。おお、マコトにマコトにもっともであって、マコトにマコトに申し訳なかった。
 あれは、月曜日の夕暮れ。せっかく500円払ってグリーン車に乗り、1日の仕事で疲労しきった気持ちをゆっくり鎮めていこうとした矢先に、クマどんのカタカタ&カタカタですべて台無しにされてしまったわけだ。オバサマの怒りはもっともである。
 今井君はすぐにオバサマに頭を下げ、丁寧に丁寧に、何度も何度も謝罪した。しかしオバサマの激怒は激しく、叱責の声は3駅続き、3駅目で憤然と下車して行かれた。ここは駅間距離が長いから、3駅継続する激怒と叱責のエネルギーはたいへんなものである。
なやみ緊急
(TOKYO-FM「スクールオブロック」の「悩み緊急大募集」。諸君、別に受験生でなくとも、悩み緊急大募集中である)

 今井君は、あの時ヘッドフォンをつけていたので、自分が原因の騒音について全く気づいていなかった。新幹線ならヘッドフォンはつけないが、総武線快速や湘南新宿ラインのグリーン車だと、日本語と英語で延々と続く車内アナウンスがあまりにもうるさいので、ノイズキャンセリングのヘッドフォンで音を遮断している。近い将来これに中国語と韓国語が加わりそうで、戦々恐々と状況の推移を窺っているところである。
 しかもあの時は、書いている内容にウキウキして、すっかり我を忘れていた。諸君、今井クマ蔵は、興がのってくると、誰にも止められないノリノリ状態でものを書くのである。「ハイ」どころではなくて「ハイハイハイ」である。今井君が高校生の頃、文化放送「百万人の英語」の講師に「ハイハイハイディ、ハイディ矢野」という先生がいらっしゃったが、執筆中の今井君はハイハイハイディ今井クマ蔵と化している。
 超ノリノリのハイハイハイディ。名古屋オバサマ宴会批判で、心もハイディ。フジテレビ「THE NEXT」も無事なかなかの内容で、ますますハイディ。スクール・オブ・ロックも近づいて、もっとハイディ。ヘッドフォンのノイズキャンセリングで、もうハイのハイのハイ、も1つオマケにハイのハイのハイ。指先でPCのキーを叩き割りそうな勢いであった。
 以上、悪条件が5つも6つも重なって、大きな迷惑をかけた。ホントに済まなかった。当該オバサマだけでなく、成田空港行き快速エアポート号のガラガラのグリーン車に乗車されていた3~4名の乗客の皆様に、心から詫びなければならない。
ニャゴのとりで
(ニャゴの砦)

 このとき「こんなに空いてるんだから、イヤなら別の席に移動すればいいじゃないか」などという議論をするのは、甚だハシタナイのである。サンデル教授は「正義の話をしよう」の白熱教室冒頭で「民主主義国家では、もし課税がイヤなら、社会を出て行く自由がある」と述べた。しかしこの場面では話は違うのであって、どんなに空いていても「どうしてもこの席がいい」と主張する自由が、全ての乗客に存在する。
 今井クマーニーがサンデル教授や「白熱教室」に好意的でないのは、議論の前提がそういうハシタナイ民主主義だからである。18歳とか19歳の幼い学部生を相手に「課税が気に入らないなら、社会から出て行けばいいんだ」という前提で話をさせるのは、教育として余りに無慈悲である。
 課税が気に入らなくても、ヒトは自分が生まれ育った社会のすべてを愛する自由がある。その社会だけの言語(我々なら日本語)を愛する自由があるし、季節の移り変わりとか、季節ごとに咲き乱れる花とか、その香りとか、花の周りを飛び回る虫の羽音とか、蝶の羽の色とか、蜜の匂いとか、風の音とか、要するに全ての繊細な存在を愛する権利がある。
 ある社会を「出て行く」とは、そうした繊細な愛情すべてを切り捨てることである。日本語の柔らかな響きも、日本の蝶の穏やかな羽の色も、菜の花の蜜の匂いも、源五郎丸や押尾のストライクにどよめくオジサンたちの酒臭い匂いも、深く深く愛しているのに、である。
 ところが、ハーバード白熱教室の学部生たちの白熱した議論においては、そういう繊細な愛情すべてを度外視して「課税が気に入らないなら、社会を出て行く自由があるんだから」、そういう無慈悲な前提が「正義の議論」の前提として据えられてしまう。
ニャゴのねぐら
(ニャゴのねぐら)

 もしも東大とかハーバードのエリート学部生たちが、そんな無慈悲な前提に立って正義を論ずるように仕向けられるなら、今井クマ蔵は目の前の受験生たちに、自信を持って「東大に行け」とは言えないのである。むしろ
「東大なんか行くな」
「もっと優しくなって、正義の議論は、その土地の蜂蜜の匂いが嗅ぎ分けられるようになるまで待ちなさい」
「日本とそれ以外の国の、モンシロチョウの羽の温度や菜の花の色合いの違いを感じられるようになるほうが、東大合格なんかよりずっと大切なんじゃないか?」
そういう極端な議論に走ってしまいそうである。
 つまり、「パソコンの音が気に入らないなら、電車内はガラガラなんだから、勝手に席を変わればいいだろう。その自由はオバサンにあるんだ。文句いう方がオカシイ」という発言は、優しさが足りないのだ。
 彼女は、その日1日の仕事なり何なりで、肉体も精神も疲弊しきっていたのである。どうしてもあの席でなければならなかったのだし、どうしても自分が移動する面倒を受け入れられなかったのだ。ならば、PC操作を自粛すべし。「うるさいんなら、どっかいけばいいだろ?」などという発言は、要するに幼稚きわまるものに過ぎないのだ。

1E(Cd) Barenboim:MENDELSSOHN/LIEDER OHNE WORTE 1/2
2E(Cd) Barenboim:MENDELSSOHN/LIEDER OHNE WORTE 2/2
3E(Cd) Barenboim & Chicago:SCHUMANN/4 SYMPHONIEN 1/2
4E(Cd) Barenboim & Chicago:SCHUMANN/4 SYMPHONIEN 2/2
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