Mon 110131 「仰げば尊し」をもっと歌うべきだ  「今こそ分かれ目」では、ひどすぎる | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 110131 「仰げば尊し」をもっと歌うべきだ  「今こそ分かれ目」では、ひどすぎる

 2月12日のお昼頃に名古屋を出た。夕方に東京・三軒茶屋で公開授業がある。そんなにのんびりしてもいられない。
 3連休の真ん中の日で、マリオットのロビーはごった返していた。まだ卒業式や謝恩会には早すぎるような気もするが、ロビーでタムロしているヒトビトの姿も格好も、どうも謝恩会仕様が多い。名古屋は、そういうのも早いのかもしれない。
侵略者1
(白い侵略者、再び)

 謝恩会でも卒業式でも、昔は定番だった「仰げば尊し」を、最近あまり歌わないのだ、と言います(10日ほど前の記事参照)。そりゃ、残念だ。日本文化の大きな損失だ。その代わりに、今井クマ蔵の知らない新しい旅立ちの歌ができて、今やそっちが定番だと言います。大正生まれのクマ蔵(もちろん冗談ですが)としては、「ええー!? 断然『仰げば尊し』がいいんじゃん?」である。
 昭和の中頃、「断然」という副詞が流行した。ゴーゴー喫茶や学生運動やガロの「学生街の喫茶店」が大流行した頃である。「断然イカしてる」「断然ボクは反対だ」とか、妙竹林な「断然」の使い方に、その頃の大人たちは断然反対したものである。
 「全然」という言葉の変な使い方が問題になったこともあった。「全然」は文末に「…ない」という否定語が呼応するのがルール。「全然勝ち目がない」「全然わかっていない」でなければならない。その「全然」を、否定語の呼応なしに使うのが、若者の間に流行したのである。「全然イカしてる」「全然賛成だ」など、この妙竹林にも、当時の大人たちは断然反対だった。
侵略者2
(侵略のプロセス、拡大図)

 まあ、いい。とにかくボクは、「仰げば尊し」に断然賛成であり、全然イカしてると思うのだ。新しい旅立ちの歌の定番は聞いたこともないけれども、それが生まれたからといって「仰げば尊し」を消去してしまうのは、昔のコトバなら「ナンセンス!!」「断然ナンセンス」or「全然、不自然」。日本文化の破壊と言って、「断然、異議ナーシ」である。
 諸君。最近の今井君は、カラオケで「仰げば尊し」を熱唱するのだ。諸君も、歌うべし、歌うべし。今井君のカラオケ定番は、かつては「いかにもカラオケ定番」「きっと課長はあれを歌うね」「部長のオハコを横取りすると、左遷&降格されかねないよ」「社長♨社長、歌っていただけませんかぁ♡」の類いだった。
 しかし3年ほど前に、今井君は何かのキッカケで突如「定番を卒業」。いまや、慶応大学「若き血」→早稲田大学「紺碧の空」→「仰げば尊し」の順こそが今井定番になった。
 しかも、カラオケ好きなヒトは普通「マイクを離さない」と形容されるが、今井君は何と「マイクを握らない」。完全アカペラでの今井の熱唱は、「じゃあ、何でカラオケに来たんだ?」という怪訝そうな視線の交錯を呼ぶほどである。
勝利
(侵略者の勝利)

 しかし諸君。「仰げば尊し」は、大音量で歌うものではない。時に涙に声を詰まらせながら、感激を込めて歌い切るものである。「ハミング」でもいい。つい最近、感動的なハミングを聞いた。半年前の岐阜の料亭での出来事である。今井君たちの宴会の隣の部屋で、中年のオバサマたちの宴会が進行中。「あれれ、これって、ハミング?」。
んんーんんー、んんんーんんー、んんーんんーんんーーーー。
んんーんんー、んんんーんんー、んんーんんーんんーーーー。
控えめなオバサマ・ハミングの合唱が聞こえてきて、我々オジサン連は、しばし「んんん」の合唱に聞き惚れ、セーラー服と学生帽の白線流しをマブタの裏で懐かしんだものである。
倦怠
(やがて侵略者を必然的に襲う倦怠感)

(1) 仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや幾年
  思えばいと疾し この年月  今こそわかれめ いざさらば
(2) 互いに睦みし 日頃の恩 別るるのちにも やよ忘るな
  身を立て名をあげ やよ励めよ 今こそわかれめ いざさらば
どうだ。卒業式は、どうしても「仰げば尊し」で決まり。朝日新聞なんかが天声人語か何かで「教師による尊敬の押し売りは良くない」とか、そういう難しい議論をしていても、そんなのは無視すればいいことである。
 ついこの間、ブログで小学校の校歌の歌詞を説明して、「『漕ぎいでむ』の『む』は意志を表す助動詞だ」と書いたところ、「さすが今井先生。古文もわかるんですね」という反響が多かった。
古典
(今井君の古典的教養の源、新潮古典文学集成)

 しかし諸君。「今こそわかれめ」について、滑稽な誤解が多いのは、まさに日本の古典教育の惨憺たる有様を見せつけられる思い。「今こそ、分かれ目」と、みんなが誤解しているらしいのだ。「ここが勝負の分かれ目ですね」の「分かれ目」である。
 つまり、「今こそ、人生の分かれ目だ、頑張ろう」という理解。「ここでふんばればうまくいく。ふんばらなければ、うまくいかない。まさに分かれ目だ。頑張れよ」。そういう分かれ目だという、困った理解なのだ。
 諸君。せめて「係り結び」を思い出したまえ。係助詞「ぞ」の結びは連体形。「月ぞ、出づる」である。係助詞「こそ」の結びは已然形。「月こそ、出づれ」である。
 そこで、「さあ、卒業式だ。今こそ、別れよう」の基本形は「今、分かれむ」。最後の「む」は意志の助動詞、終止形は「む」。連体形が「む」。已然形は「め」。
 「今ぞ」なら、係助詞「ぞ」に呼応して連体形になり「別れむ」。「今こそ」なら、係助詞「こそ」に呼応して已然形になり「今こそ、別れめ」。「分かれ目」なんかじゃない。係り結び「今こそ、別れめ」=「さあ、今は別れよう」なのである。
 うにゃにゃ。係り結びもチャンと教えないなんて、古典教育はどうなってんだ? 魔の古典男・今井クマ蔵の怒りは、こういう場面で爆発するのであるよ。
 「やよ」も、いいね。某超超有名な女子御三家進学校のモットーは「学べよ、学べ、やよ学べ」である(オソロシー♡)。やよ、学べ=「さあ、学びなさい」でござるよ、諸君。いいかね、学べよ、学べ、やよ学べ。大学生になる諸君。浪人を決意した諸君。学べよ、学べ、やよ学べ。この姿勢を忘れないで、やよ、ひたすら学びたまえ。

1E(Cd) Madredeus:ANTOLOGIA
2E(Cd) Madredeus:ANTOLOGIA
3E(Cd) Barenboim, Zukerman & Du Pré:BEETHOVEN/PIANO TRIOS, VIOLIN AND CELLO SONATAS 8/9
4E(Cd) Barenboim, Zukerman & Du Pré:BEETHOVEN/PIANO TRIOS, VIOLIN AND CELLO SONATAS 9/9
5E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 1/10
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