Thu 110120 取手からの帰り道、下北沢まで何もしない 千代田線沿線の記憶に浸る | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 110120 取手からの帰り道、下北沢まで何もしない 千代田線沿線の記憶に浸る

 こうして取手での講演会が終わって、再び千代田線の各駅停車に乗り、90分かけて代々木上原に戻る。
 もちろんこういう暢気な帰り方は「ビジネス書=命」というヒトたちにとっては「愚か者」もいいところであって、常磐線の快速電車に乗れば、北千住まであっという間(実は25分)なのである。
 首都圏の電車は、別に特急でなくともグリーン車がつくようになった。昔は東海道線と横須賀線にしかなかったグリーン車が、宇都宮線/高崎線/常磐線にもくっついている。そこで「積極的にグリーン車に乗りなさい」などというビジネス書もでてくる。
「グリーン車に乗れば、セレブと同席する機会も増える。ビジネス界のセレブと同席して名刺が交換できれば、それだけでビジネスチャンスだ。日々がどれほど豊かになるかわからない」
などということになっている。
 しかし諸君。今井君の知る限り、セレブは普通電車のグリーン車なんかには乗らないのだ。普通電車で移動できる距離なら、運転手付きのクルマで移動するか、最悪でもハイヤーに乗るみたいだよん。プラス600円だか700円だかのオカネを払ってセレブ気分に酔っているようなヒトたちを、ホンモノのセレブはおそらく最も嫌うのである。
 ビジネス書の愛読者諸君。ついでに、ビジネス書のゴーストライター諸君。もっとついでに「これからビジネス書を書こう」と考えている中途半端な成功者諸君。普通電車のグリーン車なんかで同席する「セレブ」なる者と名刺なんか交換したって、別に何のプラスもない。そういうホントのことを、チャンと知っておきたまえ。というか「…しなさい」という恥ずかしいタイトルはヤメに「しなさい」。
何にも1
(何にもしない 1)

 今井クマ蔵が好きなのは、3分ごとに停車し、停車するごとに冷たい風の吹き込む千代田線各駅停車で、90分かけてのんびりと「何にもしない」をやりながら暢気に移動すること。特に千代田線は、ほとんど一駅ごとに懐かしい記憶が詰まっている。電車が止まるごとに、そういう記憶を大事に撫でてみるのは、そろそろちょっと疲れ気味の人生の、最大の楽しみのうちの一つと言っていい。
 例えば柏に停車すると、開校から3年間メインの講師を務めた駿台柏校での日々(もう15年も前のことなのだ)が蘇る。柏には、水曜日に出講した。当時は春日部とか鷲宮とかに住んでいたから、東武野田線の単線の電車で通ったのだ。野田線は、夏は大きな蛾が飛び交い、冬は冷たい風がドアから吹き込んで、よく風邪を引いた。3年で、入れ替わった2人の校舎長はじめ、校舎スタッフにどれほど世話になったかわからない。
 北小金、いう駅もある。江戸時代に処刑場があった小金原のそばである。学部生時代、姉夫婦が北小金のアパートに住んでいて、半年に1回だか、1年に1回だか、日曜日に姉の家を訪ねたものである。
 その隣は新松戸。授業でも大人気の雑談のうちの一つ、大量の洗剤を散布して雑草を枯らそうと企てた「テラスエルム新松戸事件」は、まさにここで発生した。新松戸には4年住んだ。電通をヤメて、春日部やせんげん台にあった小さな塾にアルバイト気分で勤めていた時期。今井君のここまでの人生で2番目につらかった時期である。
何にも2
(何にもしない 2)

 次の次は北松戸。学部から電通に就職した時代まで、5年ほどをここで過ごした。短いシューカツも、ここ。「松和荘時代」の話として、すでにこのブログにも微に入り細を穿って説明した、まさに昭和の大学生生活が、この駅の記憶である。
 昭和の大学生生活に興味があったり、いよいよ大学に合格して「さ、一人暮らしだ」というヒト、特に男子諸君は、今井の松和荘時代は大いに参考になるはずだ。2009年5月のブログ「松和荘シリーズ」を、是非とも熟読したまえ。
 次が松戸、ターミナル駅である。ついこの間の10月末、ここで講演会をした直後に激しい飛蚊症の症状が出て、11月9日の網膜剥離手術に至ったのである。松戸に関する今井君の記憶は、もちろん電通時代に遡る。電通に入り、電通をヤメ、毎日吐きそうな思いをかかえて何とか生き延びていた時代、この街に住んでいた。ダイエーの裏の「セザール松戸」301号室である。
 しかも、松戸は復活の街でもある。「アルバイト気分で勤めていた塾」をやっとのことで卒業する決意が固まったのが30歳の秋。予備校デビューは河合塾の松戸校だった。予備校バブルの真っただ中である。仏壇屋さんの隣の河合塾松戸校も、まだ活気に溢れていた。
 松戸だろうと柏だろうと大宮だろうと立川だろうと、今ならどこの予備校もガラガラで、ひたすら規模縮小を続ける浪人生クラスが、あの頃はどこに行っても超満員。溢れた生徒たちが「立ち見だ」「補助イスだ」と大騒ぎで、今井君が担当した「早慶上智大クラス」にも、300人の受講生があふれかえっていた。一時は「これで人生も終わりかね」と覚悟を決めていた今井君が息を吹き返したのは、まさに松戸の西口であった。
何にも3
(何にもしない 3)

 「東進ハイスクール」のでっかい捨て看板が立つ江戸川べりを通過して、次に止まるのが金町。学部生時代に錦糸町と押上の間あたりのおウチで家庭教師のバイトをした経験がある。確か、町工場をやっている小田切さん(仮名)というおウチだった。高3の兄と中3の妹を教えた。2人とも、もうすっかりオジサン&オバサンだろう。
 北松戸「松和荘」から京成線の押上駅まで通うのに、金町から京成線に乗り換えた。あの頃の京成線は4両編成、金町の隣は「寅さん」の柴又。その先の京成立石駅には「血、買います」の看板があった頃である。赤いペンキで書かれた血液の値段も記憶しているが、まあ、悲惨すぎる時代を今思い出す必要はないだろう。
 金町、亀有の先が綾瀬。綾瀬の駅前に今もある飲み屋「赤兵衛(あかべえ)」にも、相当お世話になった。「アルバイト気分で勤めていた塾」をクビになりかけた日本史の先生に、今井君は奇妙なほど信頼され、奇妙なほど好かれ、奇妙なほど頼りにされた。
 「何故ボクがクビにされなきゃイケナイんだ? 人気もあるのに」と毎晩嘆く中川先生(仮名)をなだめるのに、何故か今井君は綾瀬の赤兵衛をつかった。「人気がある」と豪語しても、実は日本史の生徒は2人しかいない塾なのである。土間にテーブルを並べた粗末な店で生のキャベツをかじった日々は、今でも今井君の活力になっている。
何にも4
(何にもしない 4)

 で、北千住に着く。駅前の雑居ビルであっても、東進の今井講演会に150人近く集まるようになった。まさに隔世の感がある。「アルバイト気分の塾」で息を潜めていた頃、深夜まで北千住で友人たちと泥酔したものである。「よしヨシ」という店で、毎晩午前4時の閉店時間まで飲んだ。
 あのころ北千住で毎晩一緒に夜を明かした水谷(仮名)は、その後シカゴ大学に留学、帰国して今や国際関係論の立派な大学教授である。1週間に一回ぐらい北千住で付き合ったくれた矢田(仮名)も、今や某国公立大学の経済学部教授。おお、長い年月を経て、みんなホントに立派に出世した。
 どうだい。今井君は、こうやって千代田線各駅停車で「何にもしない」をしながら、「また、明日も頑張ろう」という英気を養った。明日は新幹線で京都へ。京都から奈良に入って、奈良の橿原神宮で講演会、220名が集まってくれる予定である。仕方ない、もうちょっと「何にもしない」でいるために、下北沢で一杯飲んでいきますか、ね。

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3E(Cd) BILLY JOEL GREATEST HITS 2/2
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