Thu 101230 敵の大将が現れないのが厳しさの正体 「いまを生きる」と、森鴎外「青年」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 101230 敵の大将が現れないのが厳しさの正体 「いまを生きる」と、森鴎外「青年」

 話はカンタンだ、と今井クマ蔵は思うのだ(すみません、3~4日前からずっと「昨日の続きです」です)。「人生が甘くないのは、戦いたいと思う難敵本体が、なかなか姿を現してくれないから」である。戦えるなら、番狂わせもあれば、幸運な勝ち星もある。しかし、「相手が出てこなくて戦えない」なら、挑戦者は野垂れ死にするしかない。「人生は甘くない」とはそういうことである。
 横綱が登場するのは結びの一番だ。短気な青年がのっけから横綱の相手になりたくてワナワナしていても、最初から横綱が出てくることは決してあり得ない。人生全体を勝ち抜き戦と考えれば、相手の王様や大将が現れるのは、彼らの部下を全て倒した後でしかない。幕下/十両/前頭の力士を全部倒して、やっと横綱が登場したとき、おそらく横綱の前で立ち上がる気力も残っていない。それが人間の夢の消滅であり、大志の蒸発である。
重き荷を負いて
(人生とは、重い荷を背負って長い坂を上るようなものである)

 お相撲のたとえが続いてマコトに申し訳ないが、次々と登場するgatekeeper力士は、本筋から全くズレた戦いを挑んでくる。「堂々と正攻法で戦い抜こう」という決意の強い若者であればあるほど、本筋とは異質の戦いでガッカリ&ウンザリしてしまうのである。
 つまり、「お相撲で勝ち抜こう」としていると、相手はいきなり「あっちむいてホイ!!」で挑んでくる。一列に並んで「花いちもんめ」(Mac君は「鼻一問目」と言い張っているが)で立ち向かって来る十両力士。桃太郎電鉄で勝負を挑む者。花札賭博に誘おうとする者。それどころか、ジャンケン大会で挑んでくる小結と関脇。こちらが真剣でいるときに、サザエさんのラストみたいに「じゃん、けん、ぽん、うーふふふふーぅ」で来られたら、気力も何も萎えてしまって当然だ。
 青年が意欲にあふれていればいるほど、萎え方は激しい。萎えれば傷つきやすくなるし、傷ついたものは腐敗も早くなる。今井君はむかし、医学部志望者にとっての古文漢文、法学部志望者にとっての物理化学、小学受験のクマさん歩き、高校受験のエミとサブロー(すべて一昨日の記事参照)、そういうものがみんな「あっちむいてホイ!!」や「うーふふふふーぅ」に見えていた。しかし、そこでムクれて不平不満を言えば、このゲートはくぐれない。キミの負け、苛立たせた門番の勝ちである。
ふと
(あくせく努力する日々に疑問を感じて、ふと立ち止まる)

 そういう戦いが面倒臭ければ、ガウガメラの戦いのアレクサンドロスか川中島の戦いの上杉謙信みたいに奇襲攻撃をかけ、ペルシャのダレイオス大王なり武田信玄の前に突如として姿を現すしかない。もちろん、もっとわかりやすく桶狭間の織田信長でもいい。「狙うは、ただ一人!!」と叫んで、敵の大将に向かって猛然と突っ込んでいくのだ。
 ただし、そういう戦い方は彼らが天才だったから出来たことであって、門番一人を相手に手こずっているような凡人には、望むべくもない僥倖でしかない。「人生は甘くない」「世の中は甘くない」の本質が、「戦いたい相手はなかなか現れてくれない」だということを、まず我々は悟るべきなのである。諸君が受験生だとして、まさか
「センター試験と戦うために、ボクは生まれてきたんだ!!」
「ワタシの人生の最大の目標は、東大突破よ!!!」
「クマさん歩きのために人生はある♡」
などというヒトはいないはずだ。問題は、その種の門番相手に疲労困憊しているうちに、夢なり大志なりに向かってひたすら努力を継続する気力を喪失してしまうことである。
休憩
(いったん撤退。「あくせく生きなくても、自分らしく、ゆっくり行こう」と思索する)

 森鴎外は小説「青年」の中で次のように書いた。新潮文庫版から引用すると(一部、現代仮名遣いに書き換えます)
「日本人は生きるということを知っているのだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一所懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にありつくと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである」
 どうですか。森鴎外と今井クマ蔵は、全く同じことを言っている。小学校時代も中学&高校時代も、大学時代も社会人になっても、苛立ちを抑えつつ「その先の」生活なり大志なりを求めて駆け抜ける。しかし、その先には生活も大志もないのである。
やがて
(やがて、夢も大志も薄れてしまう。今日も明日も同じ繰り返しで何が悪いの?)

 で、ここで登場するのは「今を生きる」である。英訳すれば「Seize the day」だ。「将来のことなんか思いわずらうな、今を生きろ、今を生きなければ生きるかいがない」という発想である。まあ、血湧き肉踊る発想であって、青春ドラマや映画になら、なりやすい。
 21世紀になっても、テレビの学園ドラマのほとんどが、そのテーマで作られる。荒廃した無気力な学園に新人熱血教師が「赴任」してきて、自己紹介もそこそこに荒んだ生徒たちに熱血指導するわけだ。「過去も権威も伝統も一切無意味。意味あるのは、今を精一杯生きることだけだ」。で、むかしはラグビー、柔道剣道、バレーボールにテニス。最近は「東大に入れ」という変種もあったが、同工異曲もいいところである。
 いつかこのブログでも紹介したはずの映画「Dead Poets Society」(邦題:いまを生きる)も同じことで、「型破りの若い熱血教師」という型にはまった先生が出てきて、既成の権威をすべて否定した指導を行い、静かな学園に波乱と混乱を巻き起こし、やがて夢破れて一人で去っていく。
安逸をむさぼる
(安逸に浸り、惰眠をむさぼる。これが正しいネコの生き方だ)

 しかし、諸君。今井クマ蔵は、諸君に「今を生きる」ということを、もっと冷静に慎重に考えてほしいのだ。そのためには、この4日間にわたって詳しくしつこく書き続けてきたgatekeeper論を、もう一度最初から(THE MATRIX RELOADEDのくだりから)読み直しておいてほしい。
 そこからは、実に現実的で、実にポジティブで、諸君も先生方もパパもママも、みんな納得して小躍りするはずの生き方の指針が、確実に導きだされるように思うのだ。ついでに、gatekeepersサイド/要するに世の中を構成する大人たちのあるべき姿や、社会を作る大人たちの努力の方向性まで、しっかり見えてくると確信する。
 そして、もちろんそれは「スミマセン、それは明日に続きます」なのである。

1E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 9/10
2E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 10/10
5G(Rr) スエトニウス/国原吉之助:ローマ皇帝伝(上):岩波文庫
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