Sat 101211 ラグビーの教訓(2)普段と違う戦い方は、精神も肉体もパニック状態にする | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 101211 ラグビーの教訓(2)普段と違う戦い方は、精神も肉体もパニック状態にする

 昨日の記事で書いた「自らの成功体験をモトに語る先輩&叔父さんのアドバイス」にひそむ危険は、「成功に酔った無責任な発言は、聞く者にとって出来ることと出来ないことを区別していない」「自分に出来たことは、相手も出来て当然だと思っている」という点に尽きる。ついでに「10年も20年も以前とは、環境も状況も完全に変化している」という点も忘れてしまっている。
 1月2日のラグビー早稲田vs明治戦について言えば、先輩の名選手たちからの「もっとバックスに積極的にボールを回せ」「フォワードにこだわるな」というアドバイスを受け入れた段階で、すでに明治の崩壊は目に見えていた。
 「攻撃はフォワード、バックスは守備に専念」が100年も前から貫いてきた明治スタイル。意地でもフォワードでゴリ押しするから明治はコワいので、フォワードにこだわらない明治なんか、明治でも何でもない。セコいPG狙いとか、横に散らしてバックスが走り回るなどというのは、100年を超える伝統の自己崩壊である。
 明治の相手チームはブルブル震えながら「フォワードだ、重戦車フォワードのゴリゴリだ♨」と縮み上がっている。重戦車に踏み散らされ、蹴散らされて、完全に打ちひしがれた経験は、先輩から後輩に語り継がれ、マイナスの伝統として相手チームに受けつがれる。そういうことまで否定して、PGで楽に3点とり、慣れないランニング・ラグビーで「勝ちに行く」などという自己否定を重ねる。
早稲田オヤジ
(早稲田の校歌斉唱中、キチンと起立していた早稲田ファン。気合いの入り方も、オヤジ世代は一枚上手である。観衆の後ろ姿を見ると、中高年が圧倒的に多い)

 すると、守備に専念して後ろに意識を集中していればよかったバックスの選手に、大きな負担がかかり始める。「守るだけではダメ、今日の勝利は自分の攻撃参加にかかっている」、そう考えて「いつもの自分ではダメなんだ」ということになれば、それもまた自己否定。自己否定ほど精神的に大きな負担のかかることは考えられない。
 当然、意識は前がかりになる。SHやSOも「今日のバックスにはボールをどんどん供給しなきゃ」という意識があるから、ここにも自己否定の重圧がかかる。9番から15番まで、要するに半分の選手の意識は「防御だけでなく攻撃も」と、どんどん前がかりになって、「普段と違うことをしなきゃいけないのに、自分は守備のことばかり考えている。ああダメだ、ダメだ」と自分をさいなむ。
 前半終了間際から、明治サブキャプテン・クラスの中心選手が2人3人と負傷し、退場していったが、それはマスメディアの解説者が言っていたような「不幸にも」「不運が重なって」などということではない。自己否定しながら、普段と違う動きを自らの肉体に強要した、当然の結果である。普段と違う戦い方をすれば、肉体がその変化に対応できなくなって負傷しやすくなるのは当たり前だ。
 「ディフェンスに専念しての80分」と「ディフェンスもオフェンスもの80分」は全く違うものである。アイデンティティとして「常に両方」の訓練を積んだ者なのかどうかも顧慮しないで、軽率に「バックスも攻撃に参加した方が効率的だ」などと発言した「叔父さん世代」(昨日の記事参照)は、ここを大いに反省すべきである。
後半1
(後半。日が傾くにつれて、まるで壇ノ浦の戦いみたいに一方的になってきた。ただし、平家の赤旗が圧倒的優位である)

 後半の雪崩をうつような早稲田の連続9トライは、早稲田ファンとしては、まあ一応「胸のすく思い」。特によかったのは、坂井、村田、岩井、中浜、井口。後半15分間は、売店で買ってきた日本酒の熱燗360mlを一気に空けてしまうほど。明治FWに踏みつけにされた20年前の積年の悔しさが雲散霧消する爽快さだった。
 しかし、待ちたまえ。ホントに明治はコレでいいのか。そう思い始めたのは後半15分過ぎである。バックスが前がかりになって、ディフェンスの場面でも薄っぺらい1列しかいないから、そのディフェンスの淡白さは驚くべきものである。
 ここから先は、もう「大人と子供」「大学生と中学生」「トップリーグと高校生」の世界。早稲田バックスにいいように走り回られて、一つフェイントをかけられると、もう追いつけない。1人抜かれると、もう守る者は誰もいない。独走されると、追いかけていく者さえもいない。
 得点差が30点を超えたところで、すでにギブアップして、「早く終わってくれないか」という風情。早稲田の合計12トライのうち、スタンドが沸いたのは8トライ目ぐらいまで。「もう許してやれ」「もうそのぐらいでよくないか」というシラケた雰囲気になってしまった。
後半2
(日が翳った後半は、メインスタンドが突然凍えるほどに寒くなる。試合の興味も失せて、みんな寒そうだった)

 さて、センター試験を2週間後に控えた受験生諸君。こういう話から、ぜひ「成功した叔父さんのアドバイスの危険性」を学びたまえ。効率を重視するあまり、伝統を忘れて自己否定した時の、ヒトの弱さを知りたまえ。
 例えば難関国立大医学部を目指しているキミ。キミは予定通り英数理でドカーンと満点近く獲得して、国語は8割狙い、あんまりやらなかった社会なんか7割狙いでいいのだ。ところがお正月に叔父さんがやってきて「ボクの経験では、ここから社会の勝負だね」「キミだって、中学受験の時、社会も国語も得意だっただろ」「あと10日で社会を死にものぐるいでやれば、地理ぐらい満点が取れるよ」などと言い残して帰る。
 「ふーん、そういうものかな」と思ったキミは、「じゃ、最後の10日を社会にかけてみるか」ということになる。うにゃにゃ、その時、キミにとっての社会は、明治のバックスと同じパニック状態になる。ディフェンスだけじゃなくて、オフェンスも期待されて、動きが信じられないほどぎこちなくなる。
 そこに何かトラブルでも起これば、あっという間に全体の崩壊が始まる。堤防は穴一つが原因であっけなく崩壊する。社会に気持ちが行っている分、社会のパニックは自信漲る他教科にも波及し、「あれれ、数学、大丈夫かな?」「あれれ、英語、最近サボってたけど?」ということになりやすい。時間がキツイ試験である分「?」が増えれば増えるほど不利になりやすい。
 こんな土壇場まで来て、ミラクルなど期待するから、そういうパニックを招くのだ。土壇場で必要なことは、自らの最も得意とする戦い方で悠然と戦い抜くことである。フォワード一辺倒だって、その戦いにプライドをもって貫徹する姿の方が美しいので、叔父さんや大先輩の不用意な発言で戦い方を変えるのは、正直言って愚の骨頂。余計なケガをして惨めな負け方をするだけである。
 要するに、戦い方を不用意に変えるな、ということである。愚かしいように見えても、それはヒトのアイデンティティなのだ。その変更は自己否定であり、自己否定から入る戦いに勝ち目は薄く、地滑り的な自己崩壊につながりかねない。考えてみれば、それはただの常識に過ぎない。