Mon 100816 うたかたとバウンドと静止状態 経済学と物理学を無視する プラハ到着 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 100816 うたかたとバウンドと静止状態 経済学と物理学を無視する プラハ到着

 「浮き世」を「憂き世」に引っかけて「流れに浮かぶウタカタのような人生は憂鬱だ」と深刻に嘆くポーズをとってみせるのは、江戸時代からの長い長い流行であって、新聞のコラムなどでそういう表現を見かけると「何を今さら」の感がある。
 しかし「流れに浮かぶうたかた」というところまでいけば、それはそれでマトモな人生であって、「浮き世」とか「憂き世」とかいちいち嘆いてみせる必要はない。サーフィンでもカヌーでもコンチキ号の筏でもヴェネツィアのゴンドラでも、「浮かんでいる」というのはたいへん優雅で立派な状況であって、他人が見て蔑むことはありえないし、本人が肩を竦めてみせることもない。浮かんで流れるのがそのヒトの生き方だとすれば、大いに称賛されてしかるべきである。
 問題なのは、「浮かぶ」「流れる」という境地に達することができないで悩み苦しむヒトである。その場合「浮かんで流れる境地に達しない状況」には当然2種類あって、そのうちの一つが「沈んだまま姿を消してしまう」であることは自明である。苦悶しつつ水底に沈んで姿を消す多くの存在から見れば、優雅に浮かんで流れている姿は「羨ましい」の一言に尽きる。うたかたの人生を「かつ消え、かつ結びて」「長く水面に留まっているタメシがない」などと嘲るのは、水底の苦悶を知らないチョー偉いおカタぐらいのものである。
プラハ1
(プラハのクリスマス ヴァーツラフ広場)

 前段で示した「浮かんで流れる境地に達しない状況」のもう1種を思いつかないヒトも多い。カモノチョーメイどんもおそらく「思いつかないおカタ」であるが、それはあまりに落ち着き払った哲人or偉人or世捨て人であるせいである。諸君、「浮かんで流れる境地に達しない状況」のもう一種とは、言うまでもないが「バウンド人生」である。
 いいかね、諸君。沈むことも、浮かんで流れることも、どちらも出来ないバウンド人生の苦しさを思っても見たまえ。静かな水面に平たい石をサイドハンドで投げれば、石は水面を滑るように跳ねて(つまりバウンドして)、水面で7回8回9回、おお、何度でもバウンドしてやがて水底に消える。うたかた君同様、「長く水面に留まったためし」などというドエライことにはならないのである。
 この場合、石はやがて水底に消えるからまだ救われる。人生として厳しいことこの上ないのは、そのバウンドが延々と連続して、「落ち着きのない野郎だな」「少しは腰を落ち着けたらどうなの?」と指弾され、「あんなふうになっちゃダメだぞ」と子供のための他山の石にされる日々になる。おお、流れに浮かぶウタカタ君の浮き世も憂き世も、実は優雅な人間のまさにあるべき姿。真に嘆くべきはバウンド人生を生きるバウンド君である。
プラハ2
(プラハのクリスマス 「カフカの家」のある旧市街広場)

 バウンドというものは、「上が凸の放物線」の連続で形成される。しかも放物線の頂点の位置(判別式D=0の位置)は、バウンドするごとに重力に支配されて次第に低くなるもので、やがて頂点は限りなく低くなり、ついにはゼロになる。それが「静止」であって、どの位置で静止するかはもちろん微分で求める。このことは経済学でいう「限界効用逓減の法則」にも一致していて、砂漠をさまよったヒトにとっての一杯の水の価値が、最初の一杯が限りなく高いのに、2杯目3杯目とコップの数を重ねるごとに価値は次第に低下し、例えば30杯目あたりで効用=ほぼゼロになるのと同じである。
 諸君。経済学部に入学した5月か6月にやるのがこういう話である。ローザンヌ学派だったか何だったか、ワルラスとメンガーとジェボンズと、そういう名前のヒトたちが100年も昔、経済学に微分積分を持ち込んだ。ホントにイヤな、余計なことをするヒトたちである。あんなにのんきで楽しかった経済学部(それまでは「理財学部」といって、おカネ儲けの手段をあれこれ考えてニヤニヤしていればよかったのだ)が、いきなり数学の支配する暗黒の世界に変わってしまった。
 以来、文系人間が「文系学部だから安心だ(昔は「アンパイ」と言ったが)」と思って油断して経済学部に入学すると、いきなり微分と積分と行列式を黒板に書きまくられ、「裏切られた」「こんなことをやりに経済学部に入ったわけじゃない」「大学の勉強なんか世の中では役に立たない」「もっと生きた経済を知りたい」など、おなじみの弱音を吐き、恨みつらみを言って一生を送ることになってしまった。
 もっとも、この広い世界の中で日本だけは事情が違うから安心したまえ。「ゆとり教育」で大学生の学力と精神力があまりにも急速に低下し、教授たちは口をあんぐり開けて呆れるばかりである。数学や微分積分なんか教室に持ち込むと「ネミーんじゃね?」「カッタルぐね?」「ツマンねぐね?」とヌルい罵声を浴びることになるので、教授としても「数学でいじめるより、生きた経済を材料に学生の興味をかきたてたい」という逃げ道を選択する。「机上の空論はヤメにして」「ダイナミックな世界経済をテーマに自由で活発なゼミ形式の授業を展開」すれば、朝日新聞やNHKが「日本にもあった白熱教室」とか「花まる先生」とか、勝手にいくらでも宣伝してくれて、何だかわからないがいきなり「超人気教授」にのしあがる。
プラハ3
(プラハのクリスマス 再びヴァーツラフ広場)

 さて、「バウンド人生」に話を戻すが、「バウンドするボールは、放物線の頂点が限りなく低下してやがては静止する」という法則を人生にあてはめれば、「あのヒトも大人しくなった」「角がとれた」「大人になった」「落ち着いた」ということである。
 一般にそれは褒め言葉なのであって、元気にバウンドしつづけているうちは「乱暴で落ち着かない青年だ」とケナされ、おとしめられ、激しい批判の対象になるのに、頂点の位置が次第に下がって静止に近い状態になると「おお、オマエも大人になってきたな」とニッコリされる。それがバウンド人生のツラさであって、やがて訪れる静止の時に向かって限りなく頂点の位置が下がっていく過程を「成長」と呼ばれれば、ツラくもあり、カナしくもあり、ムナしくもあって当然である。
 ただし、物理学や経済学の常識を完全に無視して、バウンドするごとに頂点の位置がどんどん上がっていく場合がある。この場合、「ありゃりゃ、オレはどこまでポンポンするんだ?」「ポン、ポーン、ポポーン!! ポポポーン!!!! …」という限りない恐怖が伴い、高揚感と躁状態とが激しく連続する。クマどんの場合、河合塾が「ポン」、駿台「ポーン」、代ゼミが「ポポーン!!」であって、あらま、ありゃりゃ、である。
 海外を旅行して回っているときも、例えば前々回のブダペストやプラハが「ポン!」なら、リスボンが「ポーン!!」、バルセロナが「ポポポーン!!!!」である。高揚感の高まりを表現するなら、回数を重ねるごとにどんどんエクスクライメーションポイントの数が多くなり、今回のバルセロナが「!!!!」である。おそらく次回のワルシャワ&クラクフは「!!!!!!!」になるだろう。
 こういう連続で、その状態は「等比数列的」というか「幾何級数的」というか、まあとにかく「止め処(とめど)がつかない」である。これを「自慢だ」「いい気になっている」と言われれば、まさにその通りであって、返す言葉は一言もない。もちろん言葉を返す必要もないので、躁状態の連続をどこまでも楽しむばかりである。
 昨年の12月、ウィーンで「ポン!」、ブダペストで「ポーン!!」、と来て、プラハで「ポポーン!!」になる予感はあった。実際、厳寒のブダペストからスロバキアを経由してプラハに到着してみると、雪はすっかり融けていて、まさに「プラハの春」。プラハは春なのに、日付は12月24日。おお、ポーン、ポポポーン、クリスマスイブの盛り上がりの真っただ中。物理学と経済学の法則を無視した「高まっていくバウンド」のウワバミ君は、プラハの駅に降り立ったのである。