Fri 100730 ちょっとでゴメン ニャゴロワ・ニャゴロノブナ・ニャゴノフスカヤ ゴーゴリ君 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 100730 ちょっとでゴメン ニャゴロワ・ニャゴロノブナ・ニャゴノフスカヤ ゴーゴリ君

 「緊急告知」というタイトルをつけたせいで、昨日の記事へのアクセスがたいへんな数になり、昨日23時から24時にかけてのたった1時間だけでも、アクセス数700件を超えた。デジタルの世界で1時間700件が多いか少ないかは、もちろんその人の判断に任せるが、そのペースで24時間継続すれば約1万7千アクセスになる計算。タレントでも政治家でもない人間のブログへのアクセスのペースとしては、相当なモノだろうと考える。
 しかし、緊急告知までしたワリには、実際のラジオ出演時間が短すぎたかもしれない。ホントにちょっとだけで、朝早起きして聞いてくれた人には申し訳なかった。前日の告知ブログの長さと比較して、「大山(タイザンです。オオヤマではありませんから、よろしく)鳴動&ネズミ1匹」というぐらいだが、まあ許してくれたまえ。ちょっとの出演にあんなに丁寧に取材してくれたJ-WAVEスタッフに、心から感動&感謝である。
 そもそも、今井どんブログは長過ぎるのである。こんなに長くさえなければ、もっと&もっと読者も増えるだろうし、もっと&もっとアクセス数も増えて、読者の負担ももっと&もっと少なくなる。告知vs放送時間のギャップだって、誰も感じたりしない。要するに長過ぎる記事が全ての責任を負うべきであって、
「いいかい今井君。『読み応えがある』とか言われていい気になるから、自分でも歯止めがかからないほど長くなるんだよ」
「小説書いてるわけじゃないんだから」
「今井のブログは長過ぎて読む気がしない」
「これじゃ19世紀ロシアの小説家以上(あれれ、「しょうせつかいじょう」で「小説会場」はないだろう、パソコン殿)の長さじゃないか。キミはドストエフスキーのつもりかね。それともトルストイのつもりかね。いや、ショーロホフなんていう小説家もいたな」
とか、まあその類いの意見や批判をいただくハメになるのだ。
下からナデ1
(深夜、獲物を狙うナデシコを下から撮影してみる。おお、優雅な獣である)

 おお、ロシアの小説かね。ソ連時代に流行したショーロホフ「静かなドン」、新潮文庫で8冊もあったねえ。たいへんだ、たいへんだ、そんな偉人たちまで持ち出されるほどの長さになったかねえ。1日A4版2枚で、すでに800日書いた。A4文書1600枚。考えてみれば、確かに恐るべき分量である。
 もっとも、ロシアの小説の長々しさは、登場人物の名前が長過ぎることも一因である。
「アレクセイ・イワーノヴィッチ・アレクサンドロフスキーは考えた。タチヤーナ・フョードロヴナ・クチノスカヤはニャゴロワ・ニャゴロノブナ・ニャゴノフスカヤほど美しくないのだ」
とか、そんな有り様では長くなって当たり前である。「クマは思った。ハラがヘったより、酒が飲みたいのだ」で済む今井君の長さは、その意味でもたいへんなことである。
 ただし、「ロシア」という比較の対象(皮革の大正、はないだろう、パソちゃん。)はある意味で的を射ているのであって、今井君がブログを書きながら常に意識しているのはゴーゴリの文体である。諸君、ゴーゴリの「死せる魂」か「狂人日記」を読みたまえ。もちろん翻訳でよろしい。岩波文庫か新潮文庫で手に入る(責任は持ちませんが)。
 ロシア語なんかで読もうとしたら、ロシア語学習に10年もかかってしまう。Rが向こう側を向いてЯになると、「ヤー」と発音して「私」の意味だなんて、そうカンタンにマスターできるものではない。Hのクセに発音はエヌなんて、許しがたいじゃないか。ДとШとЩとЖと、区別がつかないじゃないか。ЦにФにЮ、何だか扱いにくそうじゃないか。
ロワ
(貴婦人ニャゴロワ・ニャゴロノブナ・ニャゴノフスカヤ)

 「死せる魂」なら、読みはじめて20分も経過すれば「ありゃりゃ、こりゃ今井の文体だ」と気づくはずである。その長々しさと言ったら、今井君といい勝負。冒頭から50ページ進んでもまだ本題に入らない。「このままバカ話で終わる気か、コイツは?」という怒りは、「閑話休題、しかし閑話だけで今日は終わりにしときます」という今井ドンのおよそフザケきった態度への苛立ちと全く同じことである。
 田舎の県庁所在地の夜会に集まった燕尾服の男たちの描写が、夏の日盛りで氷砂糖をくだく中年女の描写に移り、そのコナゴナの砂糖にたかるハエの群れの勇ましさとしつこさを描写し、3ページも4ページも経過してから「さて、夜会の男たちはまさにそのハエを思わせたが」ということになる。閑話、閑話、また閑話である。
 しかし、「閑話だから」と油断したり、「閑話だからムダだ」と判断したりしては、ゴーゴリを理解することは決して出来ない。ゴーゴリの本質は閑話の連続であって、果てしない閑話の連続でしか描写も表現もできない時代なり思考なり性格なりが、世界には常に存在するのだ。
 閑話を1つ1つ取り出して「面白いな」「ケッコ、笑えるエピソードだ」「一服の清涼剤になった」と楽しむのもいいが、閑話を果てしなく続ける筆者の性格や思考や全体像を捉え、または思い描いて、観察者として筆者とナダラカに付きあうのも、またこの上なく楽しい読書経験である。
下からナデ2
(夜のナデシコ。フラッシュ付だと、ますます精悍に写る。ただし、後ろ足がマヌケで可愛い)

 今井君は早稲田大学政経学部政治学科の出身だから、同窓会やゼミOB&OG会に出席してみると、マスコミに就職してすっかり出世した人とたくさん出会う。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞。日本経済新聞で読書欄のコラムを書いている人もいる。この間は「中日新聞」という先輩にも出会った。大阪のABCもいれば、テレビ朝日もいる。
 彼ら&彼女らは昔から一様にマジメである。生真面目(キマジメ)もいればKUSO-MAJIMEもいる。このK-Mなヒトビトは、閑話好きの今井君に、学部時代から頻繁にカラんできたものだ。カラむというか、ツッコンでくるというか、批判してるつもりというか、要するに「閑話ばかりじゃダメなんじゃないか」と言うのである。
「ものを書くというのは、イイタイコトがあるから書くんだろ」
「イイタイコトがないのに、ものを書くのはムダだと思う」
「今井のイイタイコトって、いったい何なんだ?」
など、まあそんなところだが、予備校の現代文(当時は現代国語と呼んだ)の講師あたりに吹き込まれたオハナシを持ち出して、何だか生意気な感じの今井を攻撃しようというわけ。おお、KUSO-MAJIMEの極致である。
 諸君。「イイタイコトがあるからそれをストレートに書く」などというのは、ボクチンはつまらないのである。イイタイコトがあるからこそ、その回りをグルグル迂回して、閑話に閑話を重ねる。語るほうも楽しく、聞くほうもケラケラ軽く笑いつつ、しかしフト気がつくと同じ方向を向いている。そういう語りの方法があって、むしろ読書とは双方にそのような忍耐力を要求するものと考えたほうがいい。
 イイタイコトをストレートに言えない性格か、ストレートでは伝わらない複雑怪奇な思考がそこにあるか、どちらにしても「読む人」は書く人の性格なり思考なりに辛抱強く付きあってこそ、読書の真の楽しさがある。少なくとも今井ドンはそう愚考する(というかもう20年も30年も愚考しつづけている)のでございますだよ。アホくさいでゴアスかねえ。