Mon 100719 草加で講演会 東武線と武蔵野線の記憶 「毒を喰らわば皿まで」の日々 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 100719 草加で講演会 東武線と武蔵野線の記憶 「毒を喰らわば皿まで」の日々

 6月16日、草加で講演会。19時開始、21時終了、出席者100名弱。草加校は、駅前の大型スーパーの上層階である。普通なら「なんとか文化センター」とか「ぷるぷる交流会館」とか「地域振興ぷるぷる」のような名前のつきそうな立派なフロアに、実際にそういう類いの会館やらセンターやらと並んで、東進草加校がテナントになっている。
 一昨日も述べたように、30歳直前の今井君は春日部やせんげん台で塾講師をして何とかメシ(と酒)にありついていた時代があるから、東武伊勢崎線の沿線は何となく地元のような土地勘がある。西新井、草加、越谷、せんげん台、春日部(いくらキーを打ち間違えたからって「過スケベ」はないだろう)、東武動物公園、首都圏としてはちょっと地味かもしれないそういう街がつながっている。
 一昨日の北千住についての記事に登場した大昔の友人などは、どうも東武線は五七五七七に並んでいるようだと言って大喜びしていた。確かに「西新井、草加、越谷、せんげん台、春日部(過スケベ)、東武動物公園」である。マコトに見事に短歌の五七五七七のリズムを刻んでいる。
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(草加での講演会。最初から盛り上がっているQカニ)

 「あれ、新越谷が抜けてるぞ」というキミ。キミはまだ若すぎるのである。昔の東武線の準急は、新越谷になんか止まらなかった。「新越谷になんか」という言い方が気に入らなかったら申し訳ないが、つい15年前まで、新越谷などというのは田んぼの中にポツンと駅舎がうなだれるように立っている、「寂しいにもほどがある」という感じの駅舎。廃線直前のローカル線の無人駅(いくらキーを打ち間違えたからって「微塵駅」はないだろう)にそっくりだった。
 新越谷の駅前に「越谷アカデミー」という予備校があった。どんなヒトが通うのか、それでも「東武伊勢崎線沿線で通える数少ない本格的大学受験予備校」というステイタスがあった。若い諸君は知らないだろうが、「神田予備校グループ」というものがあり、越谷アカデミーはその支店であった。神田小川町の白水社のソバに神田予備校の本校があって、バブル期まではそれなりにマジメな生徒を抱えて繁盛していたようであるが、今井君の知るかぎり今は跡形もない。
 新越谷は「武蔵野線と乗り換える重要な駅」という認識も、やっぱり若すぎるのだ。「武蔵野線」というものが、15年昔にどれほど虐げられた路線だったか、20代以下の諸君は是非とも父母に問いたまえ。「むかし、むかし、そのむかし、武蔵野線という電車が誕生いたしました。しかしその恐るべき実態に、『武蔵野線』と口に出しただけでみんなが笑い出す、醜いアヒルの子のような電車だったのです」。ほらほら、パパやママが重い口を開いて過去を語りだしましたよ。
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(草加での講演会。いよいよ盛り上がるウワバミ)

 今でこそ東京駅始発、金属光沢も美しいスマートな電車に生まれ変わっているが、15年前の武蔵野線は、昼間は「40分に1本」。深夜になるともっとひどくて、南越谷22時半の電車が行ってしまうと、次は23時20分の終電まで電車が来ない。その終電を南越谷駅前の汚い飲み屋で待つうちに、ふと眠りこけてしまい、気がつくと電車はとっくの昔に走り去り、コートには長いヨダレのあと(コートを着たまま酒を飲むのが当時は大好きだった)という悲劇を何度繰り返したことか。おお、惨めな日々が鮮やかに蘇る。
 6両編成の電車は有名な「3色電車」。中央線のオレンジ色の車両と、山手線のウグイス色の車両と、京浜東北線の水色の車両がマゼコゼで、要するにボロくなって使えなくなった車両をつなぎあわせて武蔵野線に回して、3色電車にして何とか運行していたのである。
 Sun 100711の記事で説明した「はみだしYOUとPIA」でも、武蔵野線はおちょくりの対象として定番。自分だって「YOUとPIA」をユートピアに引っかけるなどというのはダサイもいいところのくせに、武蔵野線をおちょくることに関しては情けも容赦もなかった。
 今井君も、当時住んでいた新松戸のアパートが実際には武蔵野線の南流山に近かったから、武蔵野線はよく利用した。おちょくられてもおちょくられても、アパートのウラの田んぼ道を歩いて武蔵野線の駅に向かった。田んぼ道は、冬になると関東平野のカラっ風がマトモに吹付けて息もできないほどだったが、あの頃はまだ「なにくそ」という戦後の日本みたいなド根性が残っていたのかもしれない。
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(草加での講演会。もう止められないクマどん)

 今では南流山もつくばエクスプレスの開通ですっかり姿を変えたはずである。新越谷も、越谷も草加も変わった。そのむかし、越谷の駅前にイワシ料理の専門店があって、「毒を喰らわば皿まで」の友人と「イワシの寿司30個!!」「今日はイワシの寿司50個!!!」などという、景気がいいというよりは常軌を逸した注文の仕方を繰り返したことがあったが、今ではその店もとっくの昔に店をたたんでしまった。
 その頃の東武線には、今のようなタイプの「急行」は存在していなくて、通勤通学の主流は「準急・浅草行き」。この沿線のサラリーマンはみんなパンパンに満員の準急に詰め込まれ、北千住の駅で向かいのホームに停車している日比谷線の電車に殺到したものである。今井君の人生で「殺到」という緊迫感あふれる言葉を実感したのは、北千住駅の朝の乗り換えと(実際に傘が折れたり、あちこちで脱げた靴が乱舞したりしたものだ)、秋田高校の体育祭の棒倒し(実際に「殺せエ!!」という叫びが無数に上がったものだ)ぐらいのものである。
 一昨日の北千住の記事で登場した友人は、草加の「やる気屋」という安い飲み屋も気に入っていた。最近「やる気茶屋」というチェーン店が増えているが、草加の「やる気屋」はおそらくそれとは全く関係がない。というか、2010年の段階でまだチャンと営業を続けているかさえよくわからない地元の飲み屋である。ここでも北千住と全く同じ「毒を喰らわば皿まで」をよくやったものである。思わずそういう大昔の記憶をたどりたくなったが、まあこの日は大人しく退散。翌日のCM撮影に備えることにした。