Wed100407 講演テーマとしてもう古い「生か映像か」 自分で選択するのが重要だ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed100407 講演テーマとしてもう古い「生か映像か」 自分で選択するのが重要だ

 「生授業か、収録の映像授業か」の話が、少なくとも講演会の場では、あまり生徒たちの興味を惹かなくなったことは事実である(スミマセン、昨日の続きです)。2月3月の講演会ラッシュに痛感したのが、そのことである。昨年夏ぐらいからの傾向だが、今年は特にその傾向が強くなった。
 つい1年前まで、生徒対象でも保護者対象でも、講演会ではそのテーマに反応が一番大きかったのである。しかし2010年春の講演会では「もうその話は終わった」「決着済み」という実感が強かった。「生授業の予備校で失敗した経験がすでに何度もあるのだ、ナマじゃ(少なくとも自分は)ダメだということがもう身にしみてわかっている」という生徒がグッと増加したようである。
 代ゼミサテラインの運営がうまくいっているかどうかはさておき、河合塾もマナビスを本格展開しはじめて、かつて「3大」と呼ばれた予備校で映像配信タイプの運営に力を傾注していないのは、駿台のみになった。中小予備校でさえ、まだ拙劣な感じではあっても、自前の映像を配信しはじめた。中学受験の世界でも本部で収録した映像を補助に使うのは常識となりつつある。「映像の優位性」は今さらクマどんやウワバミどん(同一人物であるが)が訴えかけなくても、業界のこうした動きを見れば、業界人のほとんどが痛いほど肌で感じていることなのだとわかる。
ニャゴの高笑い
(ニャゴ姉さんの高笑い)

 この状況を踏まえてカンタンに結論を言えば、「要するに生徒自身の好みの問題なので、どっちでもいい」ということになる。両方とも選択肢はタップリあるんだから、生だろうが映像だろうが、自分自身で好きなほうを選べばいい。ただ、その言い方では冷たく突き放しすぎかもしれない。もう少しマジメに言えば、時代は「映像授業タイプ」をハッキリ指している。
 ナマの「バリバリ授業」では、「部活の大会前だから欠席」「期末テストの前だから欠席」「カゼ気味だから欠席」、挙げ句の果てに「ムカつくから欠席」「カレシorカノジョにフタマタかけられて、精神的に立ち直れないから欠席」、そういうふうに自己都合で欠席することばかり多くて、受講が「虫食い状態」ならざるをえない。テレビの連続ドラマと同じことで、「受けたり受けなかったり」の飛び石的な虫食い受講では効果が上がらない。というか、ハッキリ「つまらない」のである。
 年間の1講座を受講するとどうしても丸1年かかってしまうのも、生授業の決定的マイナス点である。4月に基礎講座を申し込むのはいいが、冷静に考えてわかるように、9月になっても基礎、12月になっても基礎クラスの基礎講座、ウジウジ&ダラダラいつまでも基礎ばかりというのでは、発展性に欠けすぎてやっぱりつまらない。というより「やってらんない」。「収録授業で、3ヶ月で一気に1年分」のほうを志向する生徒が多いのも当然である。
ネズミ顔
(ニャゴ姉さんのネズミ顔。なお、ニャゴ姉さんはこの撫でかたが大好きで、ノドをゴロゴロいわせて大喜びしております。決してイジメではないので安心してください)

 とにかく大事なことは、「自分で選択する」ということである。つまり、「お兄ちゃん」「叔父サン」「高校の先生」の意見やアドバイスで決めないことが特に重要。彼らVHS世代とは、時代が違うのだ。彼らの世代とは「ナマ」も「映像」もほぼ完全に変質している。前の世代はそれを知らないから、自分たちが使ったものをイメージして時代遅れのアドバイスをする。
 オススメの参考書を尋ねられて、いまだに原仙作「英文標準問題精講」を勧める高校の先生がいるぐらいだ。驚くなかれ、山崎貞「新々英文解釈研究」や佐々木高政「和文英訳の修業」を勧める人だって少なくない。1933年初版、1925年初版、そういう本を勧める世代のアドバイスは、たとえその先生なり叔父サンなりが東大卒だろうが京大卒だろうが、現代の受験生とは無関係。というか、ハッキリ言って有害である。
 「改訂しているから大丈夫」という意見もなくはないが、初版出版当初の編集方針やコンセプトは、いくら改訂してもその本から消えてなくなるものではない。治安維持法が成立して共産党員が特高警察に連行され暴行された時代のコンセプトで作られた本、ヒトラーが政権についた時代の方針で編集された参考書、陸軍砲兵学校や海軍機関学校で出題された英作文の問題がモトになっている参考書、そういうのはやっぱり困るようにウワバミ君は思うのだ。
合唱部
(ナデシコさんの合唱コンクール)

 「ナマか、それとも映像か」の議論だってそれと同じことで、昔のVHSで「テープは巻き戻して返却」などという時代に受講したヒト、大教室を薄暗くして巨大スクリーンに向かって皆で拍手していた時代に受講したヒト、そういう人が「自分の経験では、ああいう一方通行では意味がない」などと今の高校生に語りかけるのは、それこそ意味がないのである。
 それでもどうしても日本社会の中では、その叔父サンが「東大卒」だったりするだけでそのアドバイスには抵抗しがたい隠然たる力があるのだが、それを振り切って自分の意志と好みを貫けるかは、意外にこれからの人生の試金石になるかもしれない。だって、同じ叔父サンや叔母サンがニコニコ笑って「ちょっとこの写真、見てごらんなさい。素敵なヒトでしょ?」と伝統的お見合い写真♨!!!!!をキミに見せたがる可能性もあるのだ。
 同じ叔父サンや叔母サンが、彼らの時代の就職活動を引き合いに出して、「うーん、ボクの(アタシの)経験では、やっぱり就職は安定した大企業を優先すべきだろうな」「公務員も悪くないぜ」などとニッコリするかもしれない。おお、「安定した大企業」!! うぉ。がお。今どきの日本にそんなものが存在するだろうか。その叔父サンが40代なら、銀行、証券、航空、不動産。70代の伯父サンなら、鉄鋼、造船、海運、下手をすれば石炭業界。世代が違えば、どんなことでも選択の基準が全く変わることは、アドバイスが無意味というよりむしろ滑稽になること、それはちょっと考えれば明らかすぎるほどである。

1E(Cd) Lucy van Dael:BACH/SONATAS FOR VIOLIN AND HARPSICHORD 2/2
2E(Cd) Holliger:BACH/3 OBOENKONZERTE
5D(DMv) WILD ORCHID
8G(Rr) クセノフォーン/佐々木理:ソークラテースの思い出:岩波文庫
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