Mon 100222 で、2月23日の京都では何を語ったか ダメを押しすぎて反感を招く悪癖 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 100222 で、2月23日の京都では何を語ったか ダメを押しすぎて反感を招く悪癖

 書いている実際の日付は3月13日。現実と中身が20日ほどズレている。講演で全国を飛び回る日々が続き、マトモにパソコンの前にすわれない。ただでさえ遅れに遅れていたブログ更新がまたまた不安定になってしまい、まことに申し訳ないが、22日まで完全な休日がないという状況。近いうちに必ず現実に追いつくが、今しばらく不安定な更新で我慢していただきたい。

(全国を行脚1 大阪/道頓堀の「今井」)

 さて、昨日の難しい話はともかく(スミマセン、3日前からの続きで、いまだに2月23日京都での講演会の話でございます)、今井君は「京都大学に入りたい!!」という優秀な生徒諸君250名を前に、いよいよ講演本体に入った。一昨日&昨日書いたような前フリを前提に、今井君は何と、京大受験生たちに向かって「単語集をしっかり勉強しなさい」「難しい読解問題に取り組む前に、まず文法をキチンとやり直しなさい」と熱弁をふるい、「授業タイプ」の講演の中でメインに扱ったのは、早稲田大学で出題された文法語法問題10問である。

(全国を行脚2 広島/宮島の猫たち)

 受験の世界に足を踏み込んだことがある人なら、これがどれほど生徒の反感を呼ぶか、恐ろしいほどよくわかるはずである。このブログで2日にわたって書いてきた通り、京都大学や大阪大学など関西の難関国立大学を目指す諸君のほとんどが、予備校界の迷信のトリコ。「京大なら、難解な英文和訳、英作は和文和訳から」は、合言葉/標語のレベルを超えて、すでに故事成語/コトワザと化している。
「京大は、知の頂点。難解な英文読解に取り組んで、たえず思考訓練を忘れないように」
「知のトレーニングの材料には、精選された名文の読解がベスト」
といった類いのことを耳にタコができるほど繰り返し聞かされ、タコは耳にばかりか心にもアタマにも発生して、生徒はそれ以外の指導者の声に耳を傾ける意志も能力も失っている。だから、彼ら&彼女らの常識としては、
「私大の文法問題なんかやっても、何の意味もないでエ」
「私大の細かい問題は、重箱のスミをつつくだけの悪問ぞろいや。やればやるほどアタマが鈍くなるでエ」
「単語集なんか、やってもチャンと覚えられないでエ。単語も熟語も、読解問題の中で出てきたものを順番に記憶しなければイミないでエ」
などなど、予備校講師に聞かされつづけた迷信が、古い酒蔵のクモの巣のように分厚く張り巡らされ、それに反する情報には瞬時に耳を塞ぐように、瞬時に嫌悪感を催すように、ほとんど生物学的な反応をする。

(全国を行脚3 大阪/道頓堀の猫のオブジェ)

 しかし、それでも今井どんはあえて火中の栗を拾いにいくのである。1問1問の文法語法問題の解説に続けて、その問題で学び確認し記憶したことが、難関国公立の和訳問題や英作文問題に対処するときにどのように役立つのか、もしもその文法知識がなかったらどんな減点につながるのか、詳細に語っていく。
 前置詞や代名詞の些細な知識が焦点になっている問題でも、それを知らずに、あるいは修正を怠ったまま京大の試験の現場に出れば、どんな致命的な減点につながるか。逆にチャンと学習していればどんなプラス効果があるか。たった10問の文法語法問題の解説を通じて、いったいどのぐらいの減点を防止でき、どれほどの「不明瞭の領域」が「明瞭の領域」に変化するか。要するにどのぐらいのマイナスがプラスに転じるか。今井君が語るのは、まずそういうことである。
 この地道な学習を、今日はたった10問だけれども、もし1000問キチンとこなしたとき、どれほどのマイナスがプラスに転じるか、優秀で明晰な頭脳でちょっと考えれば、あっという間にわかることである。そうやって基礎と基本を1つ1つ身につけ、1つ1つ修正を重ね、気がつけば1000カ所もの誤りを修正し、例えば一つの誤りが2点マイナスとすれば、1000の修正は2000点のプラスにつながる。当たり前のことである。

(京都での講演会、終盤)

 単語集を学習することについて今井どんがウルサイのも、全く同じことである。和訳でも英作でも、単語の不確かな知識は確実に減点につながり、単語の知識を修正し増大させることで、「不明瞭の領域」は間違いなく「明瞭の領域」に裏返る。単なる過去問演習や、カビの生えた古臭い名文アンソロジーに取り組んで青息吐息になっても、そんな漠然とした学習で何がどう変わり、何がどう成長するのは、サッパリ明瞭にならない。
 要するにプライドの問題にすぎないので、「自分は優秀だから、こんなに難しい英文に取り組んでいる」という幼稚な満足感を助長して終わりである。何となく難しい英文を、何となく漠然と、来る日も来る日も「思考訓練」と称して和訳する。その思考訓練なるものが、実際には「こなれた日本語」「美しい日本語」という主観的判断基準で語られ、「明瞭の領域」からどんどん遠ざかっていく類いのものであるのは、たいへん嘆かわしい話である。「採点は客観的基準でしか行われないはずだ」という発想にさえ至らない状況で、知の頂点である最高学府の求める思考訓練など、出来るわけがないのである。
 こうして、文法問題10問の解説が終わるころには、1つ1つ前進すること、愚直に誤りを修正しつづけること、その蓄積以外に確実な向上の道がないこと、ほぼ全ての学生たちがそうしたことを納得する。漠然と難問で苦しんでいるだけでは、ハッキリとした前進は期待できないのである。250人もの京大/阪大志望者を前にして、火中の栗を拾うバカな今井どんの挑戦はひとまず大成功し、司会者に強いられたわけではないホントの大喝采で21時、無事に終了する。

(ダメを押しすぎる今井君)

 ただし、今井君の悪いクセは、「ダメを押しすぎて、かえって反感を招く」ということである。自戒を込めて書いておくが、大喝采は、ダメを押しすぎた分、反感に変わるのも早い。「迷信に酔っていたい」という無意識の暗い欲求を崩されて、帰り道には早くも「しかし」「今井先生はああ言ったけど」「でもやっぱり」という方向を志向する生徒が多いはずである。
 中2のとき、今井どんは国語の教科書で「説得ということ」を読んだ。または読まされた。説得するには、ダメを押しすぎてはいけないのだが、クマどんはこの年になってもまだ、小林秀雄に説得されきっていないのである。