Sun 100221 明瞭と不明瞭 迷信はなぜ発生するか 大学は採点基準を公表すべきだ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 100221 明瞭と不明瞭 迷信はなぜ発生するか 大学は採点基準を公表すべきだ

 明瞭なものと不明瞭なものが並立するとき、不明瞭なものの占める領域を少しでも減らし、それを明瞭の領域に変える努力のことを学問という。あえて敵味方という言葉をつかえば、不明瞭さは学問の敵であり、その一つ一つをオセロゲームのようにひっくり返して味方に変えるのが学問の使命である。
 その使命を背負っていることを十分に自覚しているはずの優秀な学者たちが、相互に連関しながら明瞭さの陣地を拡大するために有機的な集団を作れば、その場所を大学と呼ぶ。したがって、大学が良質であるために必要な条件は2つあって、一つには集団の構成単位である教授1人1人が明晰な頭脳をもち、しかも明瞭さを真摯に追求し続ける忍耐力をもつこと。もう一つにはその教授集団の有機的連関が良質で効率的であることである。
 だから、知の頂点であるはずの最高学府と、その人的構成単位である教授たちが、そこに迎え入れてともに学ぼうとする学生を選ぶとき、学生に課する入学試験問題に不明瞭な要素を残すまいと懸命に努力することは当然である。不明瞭な要素を含む「意地悪な」問題や、受験生をおとしいれる「ワナ」だらけの「ヒッカケ問題」などというものは、大学の品位を汚すものであって、最高学府を代表する出題者集団として最も忌むべきものである。
 たとえそれが外国語や国語のような科目であっても、例外は考えられない。外国語の試験問題には、用語の定義にも、論理にも文体にも、出来るかぎり不明瞭な要素のない論理的で明晰な文章が選ばれるのが当然である。採点にあたっても、基準はあくまで明瞭なものであるべきであって、そこに主観の入り込む余地のあることは許されない。

(懸命に眠る)

 以上のような考察は、良質な大学について論ずる際の基礎中の基礎であって、この基礎を逸脱しないかぎり、一昨日の記事で述べた誤った伝説なり迷信なりは発生しないはずである。ところが、日本では「良質な大学」とは言わずに「一流大学」または「難関大学」と呼ぶ奇妙な習慣が根付いていて、入学試験が難関であれば、そのことがそのまま「大学が一流であること」=「良質な大学であること」の証明と受けとられることになっている。
 京都大学や大阪大学が世論の中で「一流」であるのは、第2段に示した2条件に合致することが証明された結果ではなく、むしろ「入試が難しい」という1点に基づいている、そう考えるほうが正しいと判断するのも、また世論に合致する。そこで、「京都大学は最高学府だ」と発言する代わりに「京都大学の入試問題は難しい」と発言してもいいと考える誤解が発生する。誤解というより、あえてそう論じようと努めるうちに、自分もそう信じていると思い込んでしまうのである。

(1%の目覚め)

 「難問ぞろいだ」と目の前の生徒たちに納得させようと懸命になるあまり、思わず予備校講師の目の前が真っ赤になって我を忘れる。「我を忘れる」とは「目的完遂のために感情的になって理性を置き忘れる」ということである。採点は客観的でなければならないのだから「日本語が美しい」「こなれている」という主観的要素、しかも採点者相互間で当然大きく異なる要素を持ち込むようなことを、常に明瞭であるべき最高学府が行うはずはない、その程度のことも理解できなくなる。
 「英文和訳の英文が難解だ」というのも、同じ原因で発生する迷信である。「難解だ」という形容動詞自体が、判断するものどうしで基準の異なる、明瞭さに欠ける表現であるが、講師はもうそんなことに頓着していられない。「目の前が真っ赤」状態はさらに高まって、ひたすら英文の文体の高踏ぶりを説き、格調の高さと難解さを混同してしまう。

(95%の目覚め)

 ところが、目の前の生徒たちはそういう予備校講師の熱烈な訴えにウットリしてしまうのが常である。生徒たちは「京大英語は難問ぞろい」という伝説を確認してもらうために予備校大物講師の教室に集合したのであって、そう言ってもらえさえすればウットリするのである。
 彼ら&彼女らとしては、「いや、実際には明瞭で論理的な文章ばかりで、恐れることは何もない」などと言ってほしくはないのである。迷信とは、迷信を信じたいと熱望する多数派が存在して初めて成り立つので、混乱したその集団の渦の中に割って入って「それは迷信だ」と真説を述べる者は、その集団にとってのKY(死語ですか?)、最も忌み嫌われる「火中の栗ひろい」に過ぎない。
 知の頂点であれば、外国語をいったん母国語に直した後、もう一度別の母国語表現に置き換えるような、おかしな作業を学生に課したりはしないのである。同様に英作文の問題で、母国語からいったん別の母国語表現に置き換えて、そこから外国語に変換する不思議な仕事を、学生たちの必須の仕事であると考えるわけもない。予備校の「京大英語」の時間に常識であるかのように行われている「和文和訳」は、大学側から期待されている英語力とは別の種類の苦行に過ぎない。

(目覚め2%)

 しかし、迷信に寄りかかった講師と、迷信を誰かに再確認してほしい生徒たちとのもたれあいの中で、不明瞭さの領域はさらに増大し、澄んだ水はますます混濁し、何が真実なのか追求しようとする者は、ここではハッキリ「招かれざる客」の扱いを受ける。
 ただし、ここで終わればただの愚痴になってしまうこの話も、次の一言で積極的な提言に変わる。つまり、「これほどの混乱と迷信を引き起こしていることを、大学側は認識すべきである。不明瞭さを解消するために、大学側がすべきことはただ1つ。『採点基準の公表』である。若い世代がこれほどの迷信にとらわれて苦悩しているのに、苦悩を一瞬で解消できる行動をとらないのは、最高学府として怠慢のそしりを免れない。苦悩の解消とは不明瞭さの解消であって、それこそ最高学府の使命であったはずである」。
 なんだか、♡かっこいい♡ しかし、こんなことは良心的な予備校講師が40年も前から訴え続けていたことである。駿台の故・伊藤和夫師がその人であるが、彼が関西では常に強烈な批判の対象になりつづけたこともまた象徴的である。