Sat 100220 世論の風向きを変えるのは困難 あえて火中の栗を拾う ガリレオちゃん | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 100220 世論の風向きを変えるのは困難 あえて火中の栗を拾う ガリレオちゃん

 こういうふうに(すみません、昨日の続きです)、自分でもキツすぎるかなと思う口調と表情で「伝説」や「迷信」について指摘しながら、もちろん「たった1回の講演で迷信や誤解から生徒諸君を解放できるはずがない」ということも、しっかり&ハッキリわかっている。いっぺんで全てを裏返しにできるほど、ヒトの心は甘くも柔軟でもない。
 若い頃は、「ちょっとした行動を起こせば、世界がいっぺんにいいほうにひっくり返る」と誤解し、いっぺんに裏返らないとカンタンに心が折れ、「誰かが妨害している」とか、「世の中に裏切られた」とか、そういうことを考えてこれまたカンタンに絶望してしまうのである。今井どんみたいにしっかり年老いてくると、ヒトも世の中もたいへん難しいものであって、1人でどんなに懸命に努力してもちっとも変わらないことは身にしみてわかっている。
 一瞬だけなら、「お、動き始めた!」「お、変わりはじめた!!」「お、みんな反応しはじめた!!!」と絶叫し、鳥肌が立ったりすることもある。しかし、そういう感動は一瞬で終わるので、次の瞬間には大きな揺り返しがあり、揺り返しはきわめて多くの保守的な人々による反動だから、いつの間にか保守本流という大きな流れになってしまう。
 この場合、「一瞬」「瞬間」というのはあくまで比喩であって、まあ普通は揺り返しまでに半年もかからない。3月の民主党をみれば誰でもわかることである。ふと気がつくと、声を上げた人物、世の中を変えようとしたヒト、正しいことに気づかせようとした人物は、保守の奔流の中で異端者と呼ばれ、「ダマされた」「ゴマカシだ」「最低だ最悪だ」の呪詛の声の中で溺れかけている。若い頃はその潮目がわからないから、気づいた時にはもう手を伸ばすべき小枝もない。溺れる者に差し出されるワラさえもない。

(「怠惰とは何か」 本文とは関係ありません)

 今井のオジサンは、もう十分に老成しているので、「誰かがたった1回の講演で迷信をひっくり返せる」などとは思っていない。大人がよく口にする「世の中は甘くない」とはそのような諦めを指すのである。ましてや保守派が盛り返して反動に転ずるのは、常に時間の問題であって、永久にそれを押さえ込むことは不可能である。
 いま、場所もあろうに「京都」の講演会で、昨日書いたような迷信を指摘し、その場では大喝采を浴び、その場では1つ1つの指摘に大爆笑を呼んだとしても、明日になれば、いや、今夜の帰り道ですでに、状況は変わりはじめ、向こうに向かって少しだけ吹いた風は、あっという間にこちらに向かう逆風になる。
 「今井先生はああいっていたけど、やっぱり心配だよな」「今井先生は自分が受験生なワケじゃないから、勝手なこと言えていいよな」ぐらいが潮の変わり目。変わり目を過ぎれば、たちまち今井先生から先生が省略されて「今井がアヤシイことを言っていた」「今井についていってはいけません」「甘い言葉にダマされてはいけません」ということになるのである。

(「愚かさとは何か」 本文とは無関係です)

 その程度のことは、講演会で発言しながら、大喝采を浴びながら、自分でも十分にわかっている。世の中、世論(せろん。「よろん」というのは「輿論」と書き、意味するものも全く違う)、人の意見や嗜好の流れ、それら計りしれない大きなものを、大した権威をもたない一(いち)予備校講師の発言で、一夜にしてひっくり返せると信じるほど、今井君は経験不足ではない。
 要するに、受験英語の本場で受験英語の間違いを指摘するのは「火中の栗を拾う」行動である。燃え盛る火の中の栗を拾うという行動は、「大きな危険をあえて冒す」以上に「その結果として得られる果実が余りにも小さい」という側面がもっと強調されるべきで、あんなに熱い危険な思いをして、獲得するのが栗の実1~2個というのは、割りにあわないバカげた行動である。
 それ以上に、「たいへんなモノをつかんでしまう」という側面も考えていいだろう。火の中の栗の温度を考えてみたまえ。それを1個でも2個でも素手でつかんでしまうのは、燃え盛る石炭を手づかみする(チェレ/Wed 100217)のにそっくり(そっ栗?… ♨)である。危険な思いをして、受験英語の本場で受験英語の時代遅れぶりを指摘して、素手につかんでしまったものが「今井がいい加減なことを言っていた」という、いよいよ燃え盛る反感であるとすれば、ま、バカ正直のそしりを免れない。
 しかしそれにも関わらず、「和文和訳」だの「こなれた日本語」だの「無生物主語はバタ臭い」だの、その程度のことを「最高学府が求める至高の精緻な思考訓練だ」と断言する古色蒼然を指摘せずにいられないのが、頑固なクマどんの、頑固きわまりない困った直情径行(ちょくじょうけいこう)である。というか、「愚直」である。

(「おおい、箱から出してくんろ」 本文とは関係ありません)

 ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったとき、子供向けの偉人伝の挿し絵では、苦悩の表情で搾り出すように絶叫したことになっている。しかし、知的な人とは決して絶叫しない人のことであって、ガリレオどんはおそらく絶叫なんかしなかったのだ。おそらく仲間たちが彼の周囲を取り巻いていて、仕方なく天動説を認めながら、ガリちゃんは仲間たちを振り返り、ニヤニヤ頭を掻いて「それでも、回っているもんは、回っているんじゃん? 法廷なんかでそんなこと主張しても仕方ないんジャネ?」と意地悪に苦笑しながら呟いたのである。
 今井どんは、ガリ君とは比較するのもアホな小市民にすぎない。3年前パドヴァに旅行したとき、パドヴァ大学教授時代のガリ之丞の家だけは見学して、爪の垢を煎じて飲もうと思ったのだが、ガリレオの爪の垢はお土産ショップで売っていなかった。だからそのせいで、いまだにホントのことを絶叫せずにいられない。ホントのことを言って、チェレみたいに真っ赤な栗をつかまされても、「ヤメて栗!!」と叫ぶのが関の山である。要するに、頭の鈍い黒クマどんが、冬眠の穴からノコノコ出てきてアクビをしたようなもの。ただし、そのアクビの声に真実が含まれる可能性は、低くはない。
 さて、この話はまだまだ続く。いったい何の話かわからなくなった人も多いだろう。何を隠そう、書いている今井どん本人が、「ありゃりゃ、今どこにいるんだっけ?」と一瞬目が泳いだぐらいである。おお、そうだ、2月23日の京都駅前講演会の冒頭、15分が経過したところなのであるが、長くなりすぎる、続きは明日ということにスンベイ。