Fri 100219 京都駅前での講演会 関西の大物講師たちが主張する受験英語の古色蒼然 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 100219 京都駅前での講演会 関西の大物講師たちが主張する受験英語の古色蒼然

 2月23日、京都で講演会。京都ではつい10日前に講演をやったばかりだが、10日前は正確には滋賀県草津市だった。この日は京都も京都、ホントに京都の駅の真ん前である。19時開始、20時半終了、「キャンパスプラザ京都」という新しくて綺麗な会場に250名が集まった。
 定員200名の会場に200名の事前申し込みがあって満員締め切りになっていたのだが、当日の飛び込みで訪れたヒトがさらに50名いて、補助イスなど50脚を使用する大盛況になった。飛び込みの中にはご父兄や中学生まで含まれていて、カラフルな感じの盛況である。主催者側の職員の皆さんと東進スタッフに大いに感謝する。
 この日の講演内容は「Bタイプ」。優秀な生徒が多数を占める場合にBタイプを使用する。250名のうち、ほとんどが京都大学・大阪大学・神戸大学への進学を希望しているというのだから、まさにBタイプの出番である。普段使用しているAタイプに比較して、マジメな授業の比率がぐっと高くなる。Aタイプは「なかなかやる気になれなくて困っている」という生徒向け。Bタイプは、すでに十分やる気になっているが、学習の方向性が正しくつかめない、または間違っている、そういう優秀者向けの講演である。

(満員、補助イスのたくさん出た京都駅前での講演会)

 関西の難関国立大学について、特に英語については、20世紀に作られたたくさんの伝説やら完全に間違った迷信やらが、今もなお跋扈していて、予備校のカリキュラムも授業も、その迷信に基づいて作られていることが多い。「迷信に基づいて」という今井どんの表現には上品な遠慮があって、実際には「迷信に寄りかかって」「迷信を悪用して」「正しいカリキュラム作成を怠っている」と言ったほうが正確である。講演冒頭、まずそれらの迷信を2~3指摘し、「なぜそれが迷信と言えるのか」「どんな修正が必要なのか」を少し激しめ&厳しめの表情と口調で訴える。
 迷信をこれほど強固にしたのは、迷信にアグラをかいて努力を怠った予備校講師たちである。「京大も阪大も、和訳と英作だけだ」「難解な英文をどう和訳するかの勉強だけしていればいい」「英作文は、和文それ自体が難解。まず和文を自分なりの平易な日本語に直す、いわゆる『和文和訳』が必要だ」など。その結果、関西の優秀な高校生の英語の勉強は、悪名高い受験英語の粋(すい)を集めたような古色蒼然としたものになってしまった。
 英語の授業時間に、英語の教師はとくとくと日本語の美しさを誇り、「こなれた日本語に訳さないと減点だ!!」と叫び、生徒たちは英語の時間なのに日本語のことばかり考えている。そしてそれを「精緻な思考訓練だ」などと言い張る危うい詭弁が跋扈する。
 こういう傾向は、予備校講師の年齢の高さに如実に現れる。政治の世界にも経済の世界にも「老害」というものがあるが、関西の予備校にも同じ意味の老害が見受けられる。日本語の美しさを語り、こなれた訳文の必要性を説けば、その辺の若いモンなんかよりおじいちゃんの大先生が優れているに決まっている。あくまで印象に過ぎないが、首都圏より関西圏のほうが英語講師の平均年齢が高いように感じる。
 「駿台」というものが京都では人気が高く、代ゼミも河合塾も京都では今ひとつパッとしないのも、理由はこの辺にあるように思う。関西の駿台に根の生えたベテラン講師たちが、たった10行かそこらの英文を50分もかけて説明し、「ああでもない、こうでもない」「直訳ではこなれていない」「自分の訳文を和文和訳してみろ」、あげくのはてに「訳文がバタ臭いぞ」などということになっても、頭の中が迷信でいっぱいの生徒たちは黙って聞くしかないのである。

(Bタイプ、授業中心の講演会だが、今井どんは同じように盛り上がる)

 京都大学に合格したい。彼ら&彼女たちは一心にそれを願っている。その狭苦しい心の状態がまたちょっと情けないし、関西以外に目の向かないのはちょっと視野が狭すぎると思うのだが、話が大きくそれるといけないから、今回はそのことは述べずにおく。しかし、「京大、いのち」という発想の生徒としては、「京大は、和文和訳が必要。それが京大が学生に求める精緻な思考訓練だ」「精緻な思考に耐えられない者は京大を志望する資格がない」と講師に脅迫されれば、抵抗のしようがあるはずもない。
 しかもその大物講師たちが「過去30年の受験指導で、数えきれない受験生を京都大学に送りこんできた」という宣伝文句とともに目の前に現れるのである。実際には、「英語より数学で合格した生徒が多い」「別に駿台に来なくても、もともと合格する力のある生徒が多いのだ」が真実により近いが、まあ細かいことは考えないことになっている。「細かいことは考えないでおく」という発想のヒトたちが「精緻な思考訓練」とは笑止である。
 そういう教室では、例えば「無生物主語の構文は、主語を副詞的に訳し、目的語が主語であるかのように訳さなければ大減点である」ということになっていて、「愛が2人を結びつけた」は大目玉を喰らうバタ臭い和訳なので、「愛のおかげで2人は結びついた」と添削され、講師は得意そうに「おかげで」を強調し、声が思わず裏返るぐらいである。同じように「デフレが日本経済を襲った」も大目玉。「デフレによって、日本経済は襲われた」と添削される。「... によって」で声が裏返るのも同じである。
 うにゃ、こりゃ、たいへんだ。ということは、朝日新聞も読売新聞もみんなみんなバタ臭い日本語、間違った日本語、とんでもない大減点&大目玉♨野郎ということになる。日経新聞なんか、とんでもない。東野圭吾も、山田詠美も、小池真理子も、北川悦吏子も、みんな大目玉。関西の英語の授業に出席した瞬間に、みんな日本語劣等生なのである。
 この種のことが他にもたくさんあって、関西の英語の授業はおじいちゃんたちが支配する激しく古色蒼然としたものになる。むかしの「悪名高い受験英語」に、「関西の予備校独特の」と枕詞をつけてもいいぐらいである。
 だから、関西で「速読」とか「コミュニケーション英語」とか、そういうオシャレなことを一言でも口に出すと、たちまち「あの講師はあやしい」「アイツの授業はゴマカシだ」という結論をくだされる。その評価は定着し、大先生からは大目玉、生徒たちはソッポ、教室はガラガラ、教務課は大慌てで「先生、スミマセンが和訳中心の授業をじっくりお願いします」ということになる。代ゼミが流行らなかったのは当たり前。「あそこは、私大向け。あんなところにいったら、京大も阪大も無理や。私大しかいけなくなるで」なのである。

(終了後、花束をもらう)

 しかし、「和文和訳」だの「こなれた日本語」だの、その程度のことを、いやしくも関西の最高学府・京都大学の教授たちが求めるかどうか。京都大学教授ともあろうものが、これから4年なり6年なりにわたって教える学生に「バタ臭い和訳はダメだ」だの「無生物主語の構文では主語を副詞的に」だの、そんな前世紀の遺物みたいな語学教育を求め、そんなレベルのことを「至高の精緻な思考訓練」と思うかどうか。冷静に考えればすぐにわかることであるが、それを求めているのは京都大学教授ではなくて、高校に根が生え、予備校でコケむした名物大物おじいちゃん先生のほうなのである。
 だって、京都大学や大阪大学の教授たちは、ほとんどみんな若いころに長期間のアメリカ留学を経験して、日々の生活の半分は英語。「奥方がアメリカ人」というヒトだって、少なくはない。そういうヒトたちが、入試問題についてだけ「日本語がこなれてないと減点」「英文和訳は最高の思考訓練」「外来語は日本語にしないとダメ」「バタ臭い」とか、そんなことにこだわって学生を選んでいるとしたら、それこそ異常、世界の物笑いになりかねない。そのぐらいのことが、あれほど楽しいツッコミを入れつづける関西人にわからないはずはないのである。
 Bタイプ講演の冒頭で今井が訴えるのは、以上のようなことである。それに対して聴衆がどのような反応をし、その反応に今井がどう対応するか、さらにその後でどんな授業をし、どんな学習をアドバイスするか、それは明日のブログで述べようと思う。