Sat 091212 カニ蔵、東欧ブダペストから無事に帰還しました 13日夜の惨劇、その序章 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 091212 カニ蔵、東欧ブダペストから無事に帰還しました 13日夜の惨劇、その序章

 下北沢南口、安い飲み屋の片隅に、「市川カニ蔵」こと今井クマおじさんを置き去りにしたまま、時のたつのははやいもので、はや半月が経過した。光陰矢の如し。12月11日のブログ表紙には、もう2週間以上にわたって、酔っ払ったカニ蔵がデカイ目を剥き出したまま大見得をきりつづけている。わが分身のカニ蔵を放っておいて、冷酷にも本体のクマおじさんはまたもやヨーロッパに旅立ったのである。出発が14日朝。厳寒のウィーン・大雪のブダペスト・プラハのクリスマス市を悠然と渡り歩き、12月29日夕方、無事東京に帰り着いた。
 

 旅行中、ガイドブックに掲載されたたくさんの危険情報のせいで最初はおっかなびっくりもいいところであったが、2時間も経過すればどの街にもすぐに馴染んで地元民と見分けのつかぬ有り様となり、危険情報の一番多くアジア人もほとんど見当たらないブダペストが最も深く印象に残った。


 昼間からクリスマス市のホットワインを5杯でも6杯でも飲みほして、指先までシナモン臭くなり、夕方4時には暗くなるこの時期の中欧や東欧の長い夜を幸い、毎日ワインをフルボトル1本に、チェコのピルゼンビールやハンガリーの蒸留酒パーリンカを好きなだけ流し込んで、どこから眠りこんだか記憶も定かでない日々を過ごした。

 

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(プラハで購入したネコの置物。ボヘミアングラスである。もちろん大きい方がニャゴロワ、小さい方がナデシコ)


 まあ、今回の旅行の旅行記はごく近いうち詳細に書くということにして、まずはほったらかしておいたカニ蔵の労をねぎらわなければならない。また、何の連絡も前触れもなく、何の気配も示さずに突然ヨーロッパに出発して、読者の皆様にも大いに心配をおかけした。「死んじゃったのかも」「病気になっちゃったのかも」「ブログやめちゃったのかも」「ホントに歌舞伎界に入っちゃったのかも」その他、筆者自身には想像もつかないほど多種多様な心配なり期待なりをいだかせてしまったはずである。

 

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(20年前に新宿東口「三峰」で買った服を一着捨てた。肱と腰のところにデカイ穴があいたのである。クマどんはものを大切につかうので、服なら20年もつのは珍しくない)


 しかし、そうした多種多様な予測なり期待なりは、「死んじゃったのかも」以外はすべて「当たらずと言えども遠からず」なのである。特に「病気かも」については、11月下旬から2週間以上も長い風邪をひいていたのだから、多くの人が心配してくれたはずである。実は、その風邪がキッカケになって、12月13日夜10時ごろ、カニ蔵は前代未聞の大きな惨劇に襲われた。「襲われた」というより、むしろ正確には「惨劇に突っ込んでいった」「惨劇に激しいタックルを浴びせた」という表現の方があたっている。それがどんな惨劇だったか、その詳細は3~4日後に説明することにするが、この惨劇の結果、今回の中欧&東欧旅行の前半10日間ぐらいは、自らその惨劇の後始末(というより治療)に躍起にならなければならないことになった。

 

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(惨劇直前のギラギラ輝くカニ蔵)


 そういう惨劇に襲われ(正確には惨劇に突入して)、精神的に参ってしまわない人は少ない。すっかりションボリしてしまい、将来を悲観し、自らの能力に絶望し、しかもガイドブックに脅されて、ヒゲも凍りつくハンガリーの厳寒にさらされ、それでも落ち着いて勤勉に冷静にブログ執筆に励む、そういう強靭な精神力は持ち合わせていない。というより、イヤなことからは逃げて逃げて逃げまくる、虫歯の治療から期末試験の準備から、めんどうくさくてつらいことのすべてを後回しにしてとにかく気楽なことにしがみつく、そういうだらしない青少年期を過ごしてきた結果として、今ここに存在するのは一個のだらしなさの権化である。

 

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(惨劇直前、part2)


 こうして権化クンは、13日夜の惨劇の果てに、右のヒタイからダラダラと大量のリンパ液を垂れ流し、ハンガリー語とチェコ語の嵐に打ちのめされ、年末に日本に無事帰還して、なおブログ執筆に戻れないうちに除夜の鐘が鳴りはじめ、気がつくと正月2日の夜も終わろうとしている。


 しかも、こういうションボリしぼんだ精神状態の中から、当然のように湧き上がってきたのが「そろそろブログはヤメにしようかな」という弱気の虫の大合唱だったのである。除夜の鐘を伴奏に始まった(実はとうの昔、11月中旬から始まっていた)弱気の虫の大合唱については、近日中のブログで詳細を書こうと思う。