Sat 091205 斉藤耕一、死去 「旅の重さ」と、よしだたくろう「今日までそして明日から」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 091205 斉藤耕一、死去 「旅の重さ」と、よしだたくろう「今日までそして明日から」

 映画監督の斉藤耕一が亡くなって、1週間になる。亡くなったのが11月28日。翌朝の朝日新聞朝刊、テレビ欄からめくって1枚目、地方のこぼれ話中心のコラム「青鉛筆」の横に小さく「斉藤耕一監督、死去」のニュースが掲載されていた。その数日後、画家の平山郁夫が亡くなった時には、第1面トップ扱い。天声人語でも平山郁夫の人生について触れ、社会面でも彼の画業がどれほど素晴らしいものだったかを扱っていたが、それと比較して斉藤耕一の死亡記事は、作品名にさえ言及しないごく地味なもの。お隣に並んだ他の死亡記事を比較しても、地味な正面向き写真が1枚掲載されている以外は、ほぼ同列の扱いになっていた。


 斉藤耕一の代表作は「津軽じょんがら節」と「旅の重さ」である。「旅の重さ」は、1972年作品。新人の高橋洋子はともかくとして、岸田今日子、高橋悦史、三谷昇、森塚敏の脇役陣は昭和の日本演劇界の重鎮がズラッと揃った感じで、なかなか重厚である。音楽は「よしだたくろう」だったころの吉田拓郎。「今日までそして明日から」が主題歌になっている。まあ、今井どんがちょいウザく生酔いになった場合の、カラオケの定番の一つである。「私は今日まで生きてみました」の果てしない連呼が、いかにも吉田拓郎的であり、いかにもよしだたくろう的である。

 

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(孤独な夜のデカイ猫1)


 18歳という設定の新人・高橋洋子が、特に理由もなく家出して(「自分を解放するんだ」ということになってはいるが)、四国のお遍路道を放浪する。旅の一座に転がり込んだり、一座の女役者と怪しい関係になったり、いろいろあって最後は40歳過ぎた中年男(高橋悦史)と夫婦関係になってしまって終わる。半世紀前の美少女というものがどういうものであったか、若い諸君が研究するにはいい映画かもしれない。


 意味もなく長い黒髪、もったりした表情、もったりした行動、もったりしたモノのいい方。そのくせギョッとするぐらい大胆に、全く無意味なシチュエーションでいきなり全裸になったり、「はあ?」と声が出るほど唐突に女性同士でいけないことが始まったり。そういう「もったり重たい感じで、面倒な恥じらいや面倒な躊躇でいっぱいだけれど、時に予想もしないほど大胆にもなる」というのが、学園紛争時代の若者たちの憧れの美少女だったのである。

 

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(孤独な夜のデカイ猫2)


 21世紀の若者が見たら「何だこりゃ?」と手を打って笑いそうなこの主人公の長い黒髪こそが、ホントに、間違いなく、60年代から70年代にかけての憧れの美少女の必須アイテム。フランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」でオリビア・ハッセイを見てしまってから、日本の若者は長い黒髪を見ないと肉食系に変身することができなくなってしまったのである。


 いまになって見てみると、そんなに長い髪を、3日も4日もほとんど洗わずに、真夏の四国を大汗かいて歩き回れば、さぞ汗臭くなるだろう、さぞ激しくもつれて、クシも通らなくなっちゃうだろうと突っ込みたくもなるぐらいだが、映画というのはたいへん便利なもので、隣りに酔っ払いでも座らないかぎり、汗臭くて辟易することはない。


 高橋洋子は、その後NHK朝の連続テレビ小説「北の家族」に主演。「どうする、アイフル?」で一時的に売れっ子になった清水章吾の妹という役だった。自分でも小説を書き、「雨が好き」がちょっと売れて、それで終わりになった。


 ついでながら、この映画は秋吉久美子のデビュー作でもある。ちょい役ではないが、ちょい役+αというところか。主人公の高橋洋子とちょっと仲良くなって、小説の話だったか、四国の海辺でちょっと盛り上がるのだが、すぐ自殺してしまうという役だった。


 80年代、「300円2本だて」「400円3本だて」の名画座の全盛期には、どこの名画座でも「旅の重さ」は人気だった。2本だてなら「旅の重さ」と「津軽じょんがら節」、または「旅の重さ」と「大地の子守歌」(これは増村保造)がセットになるのが定番。「大地の子守歌」は、原田美枝子のデビュー作である。


 原田美枝子を知らない人は、養命酒のCM「未病」シリーズで、家の階段でつらそうに腰を下ろしているママの役をやっている人、といえばわかるかもしれない。彼女にももちろん若い頃があったので、「大地の子守歌」で彼女が演じているのは、何と13歳の少女りん。13歳で売春宿に売られる悲惨な経験を通じてついには失明してしまうまでのりんの半生は、余りに悲惨すぎてここには書けないぐらいである。

 

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(孤独な夜のデカイ猫3)


 明日は日曜日である。特に予定を決めていない人は、ぜひこれからでもTSUTAYAに走って、「旅の重さ」と「大地の子守歌」の2本だてを自宅でやってみるといい。今井どんが大学生だった安土桃山時代には、早稲田松竹、飯田橋佳作座、池袋文芸地下、三鷹オスカー、その他2本だて3本だてで大学生の成績と将来を台無しにする映画館が都内の目白押しだった。


 コンクリートむき出しの床、床に散乱したポップコーン、スクリーンより大きく目立つ「禁煙」の緑色の文字、後ろの方の座席で轟く遠慮も会釈もないイビキ、イビキの2重奏3重奏、舌打ち、映画の途中でも一切遠慮なく出入りするマナー皆無の観客、そういうものになやまされつつ、5~6時間は平気で映画を楽しんだものである。


 今井どんが自分で指定席と決めていたのは「前から6番目、左端」。昔1回書いたかもしれないが、ここだと、どこの映画館でも、字幕と画面が一度に目に入るのである。「ええっ、字幕必要なんですか?」という英語バイリンガル諸君。80年代にはまだ、ロシア映画、フランス映画、ポーランド映画、イタリア映画、そういう字幕必須の映画もたくさん出回っていたのだ。英語帝国主義が蔓延ったのは、つい最近のことなのである。


 で、「旅の重さ」の2回目を見て、よしだたくろうの「私は今日まで生きてみました」がまだ流れている映画館を後にして外に出ると、出るはずの授業はすでに2つとも終わっている。ゼミに出るもなにも、ゼミはもう30分も前に始まってしまって、これからでは何となく都合が悪い。目の前には「吉野家」があって、12月の午後4時半、何だか日が翳って、プラタナスの落ち葉がカサカサいって、早稲田通りは早稲田方面に向かうより、高田馬場方面に帰る学生の流れの方が優勢である。


 なら、いいか。「私は今日まで生きてきたし、明日からもこうして生きていくだろう」。よしだたくろうがそそのかしたのは、とにかくうまい飯を食って、大学なんかどうでもいいし、成績なんかどうでもいいし、シューカツなんかもっともっとどうでもいいので、授業もゼミも全部サボって、とにかく笑って生きていくこと、それしかないよな、そういうことなのであった。斉藤耕一とは、そういう映画を作った人であって、今日までダメな一生を送ってきた今井どんなどにとっては、平山郁夫の遠いシルクロードの絵よりもずっと親しみ深い人だったのである。

1E(Cd) Chailly & RSO Berlin:ORFF/CARMINA BURANA
2E(Cd) Pickett & New London Consort:CARMINA BURANA vol.2
3E(Cd) Menuhin & Bath Festival:HÄNDEL/WASSERMUSIK
6D(DvMv) W.
9D(DvMv) AMADEUS
total m45 y1662 d3907