Mon 091130 41℃の風呂2時間で悪いモノを排出、「ザ・ポカリ人間」で風邪を撃退した頃 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 091130 41℃の風呂2時間で悪いモノを排出、「ザ・ポカリ人間」で風邪を撃退した頃

 11月下旬に風邪をひいて、その風邪がこれまでにないほど長引いて、治らないままとうとう12月に入ってしまう。ちょっと前までなら、風邪どころかインフルエンザであっても、41℃の風呂に2時間浸かった後で、よく冷えたポカリなりアクエリアスなりを1.5リットル痛飲すれば、ケロリと治ったものである。今井どんはポカリ派。アクエリアスの淡白な薄味では治らない風邪でも、ちょっと塩味のきいたポカリを冷やしてグビグビやると、だいたいの病気はまさに一発で回復した。悪いモノを全部汗にして流し出し(何だかちょっと汚いけれども)、その分をポカリで補給して「ザ・ポカリ人間」みたいになっちゃうんだと考えていた。


 予防接種だって滅多にしないが(最近は年末に2週間ほど海外に出ることが多いので、用心のために接種だけはするようにしておりますです、はい)インフルエンザにかかったのは、記録の上では8年前である。発症したのが1月下旬の日曜日の朝。その日は代ゼミ大宮校A館で直前講習があり、同じ生徒たちの前で90分×4コマを一気に片付けてしまうという乱暴きわまりない講座であった。講座名は「英作文・完璧6時間」。90分×4コマだから計算すると6時間になるわけで、なんと6時間のすべてが英作文なのである。


 当時住んでいた下北沢の自宅で、目が覚めたのが朝6時ちょっと前。大宮に8時までに到着するとすれば(授業開始1時間前に到着するのが今井の主義である)、できれば6時半頃には家を出たい。「熱をはかる」などということを滅多にしない今井どんが、あのときだけは一応体温計を脇の下に挟んでみた。38度だか37.5度だか、まあそんな感じ。


 あのときの熱がインフルエンザだったかどうかわからないが、とにかくもう生徒たちは大宮校に集まりつつあるだろう。しかもその中には、群馬や栃木や、新潟からでも新幹線で来る熱意ある生徒まで含まれている。「いまさら休講というわけにもいかないだろう」と考えて、とにもかくにも大宮に向かった。

 

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(シャウトするニャ沢ゴロ吉。伝説のロッカーである)


 ところが、大宮の駅で降りてから、まだ破綻していなかった「そごう」の向こうの代ゼミA館までのわずかな距離を歩くのが、ちょっと容易ではない。冷たい風の中に霧雨の混じる最悪の天候。それでも講師室にたどり着き、「その日の授業は今井先生の『英作文・完璧6時間』以外1つもありません」という状況の講師室に一人ポツンと座って、授業開始の9時を待った。


 暖房はがんがんかかっているのだが、それでも寒くてブルブル震えが止まらない。昔の予備校は「夏より冬の方が暑い」「夏はセーターが必須だが、冬はTシャツ1枚でOK」というぐらいで、空調の設定が「夏でも25℃、冬でも25℃」だったのだが、ということは、あの日の今井グマは25℃の暖かさの中でブルブル震えていたのだ。
 

 生徒は100人ほどいた。センター試験も終わった冬の日曜日、「英作文だけ」で、しかも「90分×4コマを一気」などという、およそ人間を人間扱いしていない講座に、100名もの人間が集まってくれたことに深く感謝し、
「万が一、私がインフルエンザにかかっている可能性に備え、講師室での質問は厳禁。講師室を訪れないように」
「最前列や2列目など、感染の恐れのある席には座らないように」
「私は寒くて震えが止まらないから、コートを着たまま授業を行うが、腹を立てないでほしい」
など、事前に必要な断りを徹底させてから授業にとりかかった。教室内でも、膝まで届く分厚い紺のコートを着続けたのである。30歳になったかならないかの頃に春日部「ロビンソン・デパート」の平場で買ったダーバンだったか何だったかのコートである。春日部ロビンソンは、客も店員も全部地元のオバサンで構成されているという、地産地消型のデパート。月曜日に客だったオバサンが、火曜日には店員のパートとして働いている。水曜日のパートは、木曜日には客である。そうやってどんどんシャッフルされるから、2年も経過すれば、誰が客で誰がパートだかハッキリわからなくなる。


 そういう店の平場で、元気なオバサンのパートから買ったそのコートは、確か4万円ちょっと。おお、安い。あの時の大宮でも活躍したが、2009年、今でも今井どんのタンスにぶら下がっていて、まだ活躍中。昨年秋に別のコート(ロロ・ピアーノだかピアーナだか、とにかくそんなヤツ)を購入したけれども、ロビンソン君にも愛着があって、とても捨てることはできない。2番手コートとしてまだまだ活躍してもらいたいのである。


 さて、すっかり話がそれてしまった。「閑話休題」ということにするが、ブログなどというものはもともとすべて「閑話」なので、頑張って「休題」してもどうせ大したことにはならない。

 

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(スポットライトの中のニャ沢。BIGからGREATへ飛躍の瞬間)


 あの日、90分授業の最初のうちはまだチャンと声も出ているのだが、30分経過、45分経過、そのあたりから声が次第にかすれてきて、思い切り腹筋に力をこめなければ声が出ない。しかしあまり頑張りすぎると喉が破裂しそうに痛くなって、激しく咳き込んでしまう、激しく咳き込めば、その飛沫が原因で生徒に風邪がうつる可能性が高くなるから、咳き込まないように気をつけなければならない。


 やがて鼻もつまり、1時間目の授業が終わる頃には激しくつまって、カジノの金庫を密閉したような完璧なつまり方。鼻呼吸が(「はなこきゅう」を変換すると「花子級」が出ちゃうんですね)全くできない。この状況で英語の授業をするのは、目隠しをした空中ブランコみたいなものである。


 ホウホウの態で講師室に戻って、すぐに風邪薬を飲む。生徒にも、うがいと手洗いを指示する。総合感冒薬というのも、それなりに効果はあるのだ。あのとき飲んだのは「ルル」。「ルルが効く」とか「今井はルル派」とかいうのではなくて、代ゼミの講師室に置いてある風邪薬はルルしかないから、それでルルだったのである。ベンザでもパブロンでもジキニンでも、コンタックでもプレコールでも改源(関西の人には「改源」派が多いと聞いたことがあるが)でも、要するに同じようなものなのだが、とにかくルルしかなくて、そのルルを休み時間ごとに飲んで、4コマの授業で3錠×4で12錠飲んで、ついに「英作文・完璧6時間」の大宮校篇は何とか最後までやり遂げた。おかげで代ゼミ大宮校のルルは、料理屋でいう「ヤマ」になってしまった。要するにクマが全部飲んじゃったのである。

 

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(ニャ沢、「世界はニャ沢のもの」宣言)


 あの日ほど、「生徒からの差し入れ」がうれしかったことはない。とにかく水分がほしくて、ポカリやアクエリアスや、「ピックル」とか「ピルクル」とか当時流行した同じような乳酸菌飲料や、オロナミンCやリポビタンDや、まっ黄色い「マウンテンデュー」や、「くだものだもの」や、もののハズミで首を脱臼し、余りの痛さに呆然と苦笑する男の顔が描かれた「ポッカコーヒー」や、とにかく教卓の上に置かれていたあらゆる差し入れの水分をほとんど全部飲みほした。あのころの予備校には、生徒がお小遣いで「講師の先生に差し入れをする」という美しい習慣が、まだ残っていたのである。


 こうして、何とか喉も鼻も熱もすべて克服して、英作文だけという恐るべきテキストの最終ページまで、漕ぎつけることができたのである。17時、それでも少し時間を延長して、教師が分厚いコートを着たまま英作文を黒板に書きまくるという奇妙な授業は終わった。当時の生徒たちはすでに20歳代後半になっているはずだが、あの時のことは大いに感謝したい。


 しかし、さすがにあの頃の今井どんにはまだ馬力があって、その晩自宅に帰ると、何と「酒を飲んで」すぐに就寝。あの状況でも、それでも酒だったので、「どれ、酒ぇ、カッくらって、ひと寝入りすっかねえ」とかウソブイて、2合ぐらいの酒を飲みほしてから、泥のように眠った。まだ暗い早朝に起きて頭をフラフラさせながら、早速お決まりの41℃の風呂に1時間半浸かって「悪いモノをすべて排出」(おお、汚い)。その後「冷やしたポカリ人間」に変身。これで完全に元通りになって、1~2時間後にはもうケロリとして翌日のハードな講習に臨んでいたのである。おお、激しい日々であった。