Wed 091125 この時期になると、毎年必ず1度は風邪を引く その原因を求めて過去を語る | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 091125 この時期になると、毎年必ず1度は風邪を引く その原因を求めて過去を語る

 毎年この時期には1度風邪を引く。「この時期」というのは、11月下旬から12月中旬である。どうしてだかよくわからないが、東京郊外の校舎で授業があった直後が多い。15年も昔、埼玉県北葛飾郡鷲宮町という小さな街のマンションに住んで、駿台と河合塾をカケモチしていた時代があったが、「この時期必ず1度風邪を引く」という習慣性の風邪の引き方をするようになったのは、考えてみるとあの頃が初めである。あの頃は、首都圏の北のハズレに住んで、予備校講師も駆け出しのうちはなかなか首都圏の真ん中のいわゆる「本部校舎」で授業を受け持たせてもらえないから、1日のうちに郊外校舎を2校も3校もカケモチして生活していた。


 例えば、午前から午後にかけて駿台大宮校、午後から夜にかけて河合塾西千葉校(当時は単に「千葉校」と呼んでいた)、そういうつらい1日があるとする。15年以上前の、確か火曜日がそうだったのであるが、当時の駿台は朝8時50分授業開始だから、東鷲宮駅を7時半頃の宇都宮線で大宮に向かう。ちょうど席がみんな埋まった頃で、もちろん座れない。久喜、白岡、蓮田とだんだん大宮が近づくに連れて、混雑が増して、大宮校にたどり着く頃にはすでに疲労困憊である。

 

2024
(15年以上前、電車の中で読みふけった講談社学術文庫「アラブの歴史」)


 しかも、昔の駿台大宮校には「本校舎」「新校舎」「研修館」「西校舎」の4つの建物があって、たった10分の休み時間で目まぐるしく移動しなければならなかった。6時間目までそうやって忙しく校舎間を走り回って、走りながらor昼食をとりながら生徒たちの質問に答え、河合塾西千葉にギリギリで移動する。そういうカケモチが許されるのも「駆け出し」の頃に限られるが、東武野田線に乗って柏・船橋経由で西千葉に向かうルートでも、JRを使って上野・秋葉原経由で律儀に西千葉に向かうルートでも、なかなか心理的な負担が大きい。プレッシャーが大きいと読書にも身が入らない。風邪を引きやすいのは、こういう時である。


 当時の河合塾西千葉校は、生物の田部先生や、英語の芦川先生に古藤先生、その他まさに錚々たるメンバーが揃っていた。そのオーラに圧倒されつつ(というほど昔の今井が気が小さかったわけではないが)夜8時半まで授業をして、すべての質問に答え終わるのが21時半。しかも東大英語とか上智大英語とか、どうしても質問が押し寄せやすくなるテキストを担当して、ますますプレッシャーが大きかった。


 その帰り道は、遥かな遥かな道のりである。諸君、地図帳とか時刻表とか駅探とかで確かめてみたまえ。21時半に総武線の黄色い電車で西千葉を出た今井どんの前に、どこまでもどこまでも道は続いた。船橋で東武野田線に乗り換える。15分に1本しかなかったこの電車は、あの頃(バブル末期、三共「リゲイン」のCMが「24時間働けますか」だったころである)疲れきったサラリーマンのとげとげしさに包まれていた。

 

2025
(一般の文庫本と比較した「アラブの歴史」。おお、こりゃ分厚い 1)


 それでも何とか空席を見つけて、講談社学術文庫「アラブの歴史」を広げた夜のことを、今でも記憶している。ヒッティ著、岩永博訳、上下巻合わせて1600ページのたいへんな文庫本である。あの退屈な本を意地でもめくりながら、柏を通り、野田を通り、清水公園だったか七光台だったかの暗闇で、容赦なく電車に吹きつける強風に驚きながら、春日部まで1時間半。春日部に到着する頃、時計はすでに23時を大きく回っている。


 で、さらに春日部で東武伊勢崎線に乗り換える。これがまた、深夜になるとなかなか来ない電車である。下手をすると20分近くも寒風吹きすさぶ春日部のホームで震えながら待たなければならない。今は東急から直通の「久喜行き」が増えたので、このルートは圧倒的にラクになったはずであるが、15年昔は今とは全く事情が違っていた。群馬の方に行く「伊勢崎行き」「館林行き」「太田行き」が来ればいいのだが、「新栃木行き」「東武日光行き」では東鷲宮にたどり着けない。この駅のホームで、毎週冷たい風に晒されて待ったのも「この時期になると毎年1度は風邪を引く」という習慣性の風邪の原因になったように思う。

 

2026
(一般の文庫本と比較した「アラブの歴史」。おお、こりゃ分厚い 2)


 で、日付が変わる頃になってようやく宇都宮線東鷲宮駅にたどり着く。駅前に、もう開いている店なんか1軒もない。というより、もともと昼間だって「店」というもの自体がほぼ皆無だったのである。5~6分歩いて大きな道に出れば、トラック野郎たちのための「どさん娘ラーメン」というのが1軒夜でも開いている。しかし、それだけである。駅の反対側には「2階建てのダイエー」という不可思議なものがあったが、昔のスーパーに深夜営業などありえない。黒々とした背の低いカタマリが、関東平野のどまんなかの言語道断に冷たい北風をやり過ごすように、ますます依怙地に身を屈めているばかりである。


 マンションまでは宇都宮線の線路に沿って徒歩10分強。途中には人影はない。イヌの遠吠えが微かに聞こえ、無言のオジサンたち数人と抜きつ抜かれつするだけである。街灯も、まばら。途中、貯水池みたいな、そうでないような、とにかくいつでも泥水が溜まっている中途半端な水たまりがあり、線路の向こうは旧国鉄の貨物列車の操車場跡。昭和のころには貨車がたくさん停車して活気もあったはずだが、いまや線路の大半が撤去され、わずかに赤錆だらけの線路の上に、貨車の残骸が転々と残っているだけである。

 

2027
(すでに20年も使っている文庫本の皮カバー)


 強風に雲は吹き払われて、月明かり。貨車の残骸はすっかり枯れたススキとセイタカアワダチソウの中に埋もれて、青い月明かりを浴びている。その向こうは、もうどこまでも続く田んぼの列である。やがてその日最後の宇都宮線下り電車が後ろからオジサンたち数人を追い抜いていく。「小金井行き」である。客も疎らな車内に薄黄色い明かりが灯って、酔っ払いがドアにもたれているのが見える。電車の巻き起こす風に思わず身体が縮むほど震え、ようやくマンションにたどり着く。こうして1日が終わるのである。しかし、翌日は駿台柏校で朝8時50分から授業。すぐに寝て、朝6時には起きて、たった今たどってきたのと同じルートを、明朝は南に降りていかなければならない。こういう日々の連続だったのだ。「この時期の習慣的な風邪」も何となく理解できるはずである。

1E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.3, No.5 & No.8
2E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.9
3E(Cd) Gunner Klum & Stockholm Guitar Trio:SCHUBERT LIEDER
4E(Cd) Wand & Berliner:BRUCKNER/SYMPHONY No.4
5E(Cd) Blomstedt & Staatskapelle Dresden:BRUCKNER/SYMPHONY No.7
8D(DvMv) AMERICAN BEAUTY … LOOK CLOSER
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