Tue 091117 茗荷谷での講演会 茗荷谷の記憶 六本木「なまはげ」と占領された日本の光景 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 091117 茗荷谷での講演会 茗荷谷の記憶 六本木「なまはげ」と占領された日本の光景

 久しぶりに地道な1日の記録を書くことになって、これはこれでまた素晴らしいことである。11月10日、実際にはちょうど1週間前のことになるが、茗荷谷で講演会があった。茗荷谷という地名自体、東京の人以外にはそんなに馴染みのあるものではないだろうから、まあマイナーな講演会といえば確かにマイナーである。茗荷谷は、池袋から丸ノ内線で2駅分さらに都心に入った文教地区。正確にはわからないが、おそらく文京区内であって、お茶の水女子大その他の大学も多く、そのまま丸ノ内線に乗っていけば、東京大学下車駅の本郷三丁目はその2つ先である。


 近くには、筑波大付属中&高とか、お茶大付属とか、学芸大竹早とか、国立付属の名門が林立。巣鴨や豊島岡(WORDだと「年増が丘」という何だか恐ろしい変換になるんですね)など私立有名校も近いし、都立の名門もやっぱり負けずに林立している。だから、東進茗荷谷校で講演会ということになると、さすがに目の前にズラッと並んだ受講生たちの顔は賢そう。話では、このあたりの中学高校に合格すると、家族で引っ越して来る人も多いらしい。

 

1993
(茗荷谷での講演会 1)


 今井自身の茗荷谷体験は、すでに20数年前に溯る。河合塾が東京に進出するキッカケになったのは、他の予備校に先駆けて実施していた「東大オープン」であるが、今井君が受験生の大むかし、12月26日27日の2日にわたって受験した「東大オープン」が、茗荷谷の拓殖大学会場であった。駿台の「東大実戦模試」というのはその翌年から始まったので、今井君の現役高校生当時、「そっくり模試」タイプはこの「東大オープン」しかなかった。「Z会共催」になって「東大即応オープン」と名前が変わったのは、それよりずうっと後のこと、そのころはもう講師の立場になっていたはずだ。


 「禁煙」という貼り紙がそこいら中に貼られた拓殖大学で、得意の国語でさえサッパリ満足のいかない答案さえ書けない自分が情けなかった。だから「こりゃどうやら浪人だ」と思い知らされたイヤな思い出しか、茗荷谷には残っていない。国語の2番の問題で「ジレンマ」を「ディレンマ」と書いたところ、送り返されてきた答案に赤字で「ジレンマ」と訂正されており、2点減点されていたのが何だか納得がいかず、むかついているうちに東大の受験日がきてしまった。茗荷谷体験は、それだけしかない。

 

1994
(茗荷谷での講演会 2)


 東進に移籍してから、すでに茗荷谷で3回講演会をしているから今回が4回目である。19時開始、21時終了。「高1&2限定」だから、参加50人強でもこの時期としては立派である。高学力層を相手にして、教材はあまり難しくない方を校舎が選択してきたから(今井の講演用教材には数種類あって、校舎の側で自由に選択することになっている)、対応が少し難しくなった。


 しかし、成績優秀者は一般に、たいへん素直に人の話を聞いてくれることが多い。「教材が易しすぎる」と思っても、その易しい教材を教師がどう料理するか、易しい教材からどんな栄養を搾り出すのか、そういうことに興味をもって、固唾をのんで見守るだけの力量があるのだ。易しい教材を与えられて、「易しすぎる」「こんな易しい教材では何の意味もない」などといってムクれているのは、まだまだ力量が不足している証拠である。茗荷谷校の諸君は、おそらく今井の解説を聞く前からほとんどわかってしまっている教材を前に、心から100分の講演を楽しんでくれた様子。今後も成長を大いに期待できる、なかなかアッパレな生徒たちであった。

 

1995
(茗荷谷での講演会 3)


 終了後、22時過ぎから六本木の「なまはげ」で晩飯ということにする。最近都内にどんどん支店を増やしている秋田料理店である。客が楽しめるように、たくさんの工夫が凝らされていて、入り口を開けるのにも、でかいナマハゲの口の中に手を突っ込まなければならない。まあ、ローマの「真実の口」と同じなのであるが、うーん、どうもこういう「あの手この手」というサービスの仕方は秋田県人らしくない。


 典型的秋田県人というのは、自分たちだけ楽しければそれでいいので、他人を楽しませたりもてなしたりというのは苦手。この種の熱心なサービス精神は、同じ東北地方でも他県にしか見られないものである。メニューを何度も検証したが、どうもこのチェーン店は青森か岩手の人の経営と見た。岩手独特の料理が多いし、きりたんぽ鍋の味も、妙に甘めに作られていて、「らしくない」。店内に流れている音楽は、ずうっと吉幾三。彼は青森県人のはずである。その音楽も、23時を回ると完全に六本木的な洋楽だけになってしまった。

 

1996
(クマに似たナマハゲ。「私語厳禁」の貼り紙の横で私語に励む、このタイプのナマハゲは珍種である)


 6~7人は収容できる広い個室で飲んでいると、急に店内の照明が落とされて、暗闇の中をナマハゲが襲ってくる。そういうイベントが一晩に1回だか2回だか設定されていて、それがこの店の売り物の一つなのであるが、残念なことに彼らは完全に標準語である。秋田人が無理して話している標準語は、今井の目と耳にかかれば、どんなに頑張っても「あなたは秋田県人だ」と見抜かれてしまうのだが、逆にどんなに他県人が頑張って秋田語をマネしてみても、今井の耳を欺くことは出来ない。


 ま、そういうわけで、ちょっとシラケた気分で店を出た。深夜の六本木に冷たい雨が降り始めて、そこいら中のクラブだのキャバクラだのから、中途半端に酔った男たちが吐き出されては、タクシーに吸い込まれていく。今井君はその手の面倒な店にはサッパリ興味がない。別に無理してカッコつけているのではなくて、ホントに全く興味がない。たくさんお金を払って、その見知らぬ女性に金額分だけ親しくしてもらっても、ちっとも嬉しくないどころか、この冷たい雨の中では空しいだけだろうと確信するのだ。そんなことなら、東京人が頑張って扮装したナマハゲを秋田弁でからかっている方が100倍も200倍も(数字に意味はありません)楽しいだろうにと思う。


 ただ、六本木がますます外国になっていくのを痛感した夜でもあった。表通りは、ほぼアフリカ系が支配。アフリカ系アメリカ人もいれば、ホントのアフリカ人も多いが、とにかく六本木の交差点、ドンキホーテ付近、そのあたりの光景は、ニューヨークの裏町の雰囲気で満ちている。しかも、一歩横道にそれれば(「なまはげ」はその「一歩横道にそれた」あたりにあったのだが)そこは「中国系美女」と「韓国系美女」が支配。おお、いったい日本人はどこにいったの?であるが、もちろん日本人は泥酔して、お金をいっぱいとられて、流れ作業のようにどんどんタクシーに詰め込まれていくだけなのであった。