Sun 091031 受験生諸君と話して元気になる 朝日新聞「百年読書会」と内田百閒「ノラや」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 091031 受験生諸君と話して元気になる 朝日新聞「百年読書会」と内田百閒「ノラや」

 10月30日、町田から帰る頃にはすっかり気分も立ち直って、元気いっぱいのオヤジグマに戻っていた。受講生諸君には「感謝、感謝」である。講演終了後に、講師控え室で何人かの高3生諸君とも話をした。東大理科Ⅲ類を目指して好調をキープ中の男子(東大模試の英語で120点満点中112点もとっているのだ)、その友人で東工大と防衛医大を目指す元気いっぱいの男子(いきなりワイシャツを脱いで「Tシャツにサインしてください」には驚いたが)、タイプは全く違ったけれども、2人ともたいへんにこやかで頼もしかった。2週間前に保護者対象の講演会に来た時に、模擬試験が悪くて泣き出していた女子生徒も顔を出してくれた。すっかり立ち直って、この様子ならどうやらうまくいきそうである。


 こういう受験生たちを見ていれば、ついさっきまで優しくない人々の行動をたくさん目撃してションボリしてしまい、食欲さえなくしてふさぎ込んでいたクマどんも、ますます元気を取り戻してくる。町田から帰るのにまたまたロマンスカーでションボリ座っていく選択肢もあったのだが(町田発21:46というのがあった)、酔っ払いだらけで混雑した急行で元気よく帰ることにした。クマオヤジのくせに、ちょっとデリケートすぎるところは反省すべきなのである。優しくない人が優しくない行動をとって、平気で他人を傷つけるのを目撃し、そんなことでゲッソリ疲れきってブログの更新もできなくなるようでは、オジサン失格である。


 それはよく承知しているのだが、例えば朝日新聞をめくっていて、読書欄の「百年読書会」を読むとする。ちょうど大好きな内田百閒の、その中でも大好きな「ノラや」が扱われている。ところが、「百年読書会」に寄せられている投書は、唖然とするほど冷酷な意見ばかりである。
「ネコはキライです」
「あの媚を売るような声が大嫌いです」
「イヌの話ならよかったのに」
「たかがネコ1匹で何でこんな大騒ぎをするのかさっぱりわかりません」
とか、「百年読書会にこんな作品が選ばれること自体理解しがたい」などというのまである。「ノラや」を読んで、人々が最初に思うのがこういうことだとすれば、これは悲しむべき事態である。いったい、日本の学校の国語教育は何をやってきたのか、この感受性のなさはいったい何なのか、またまたションボリ&ゲッソリしはじめる。

 

1924
(絶版の旺文社文庫/内田百閒「ノラや」1983年初版)


 「ノラや」を読んだら、まずこのおじいちゃんが可哀想で可哀想で、それで涙が止まらなくなるべきなのである。たかがネコ1匹、そんな小さな動物がいなくなっただけで、随筆の名手なのにもう1行も書けなくなってしまい、飯も大好きな酒も喉を通らない。そういうおじいちゃんが、可哀想で、可愛くて、読みながら声を上げて泣きたくならなければ、おかしいのである。


 愛情などというものは元来そのぐらい他愛のないもので、大好きな対象を前にしては、道徳も価値観も倫理も人生観も何もないのである。飼うともなく飼っていた元野良猫のノラが、不意にどこかに姿を消して、帰ってこない。きっと雨にうたれて震えているだろうと思うと、可哀想で涙が止まらない。ノラが大好きだった寿司屋の玉子焼きを見るのがイヤだから、もう寿司を注文するのもイヤ。ノラがいつも眠っていたお風呂の蓋の上の小さな座布団を見ただけで、可哀想で可哀想で涙が止められないおじいちゃん。その後ろ姿なり、老眼鏡を外して涙を拭う姿なりを思えば、まずどんな人でも同情の涙ぐらい流れてしかるべきである。

 

1925
(以前にも写真で掲載した中公文庫版「ノラや」。こちらは、「ノラや」関係の随筆を後から編集した編纂本である)


 ネコがキライなら、ネコをイヌに置き換えて読めば同じことである。イヌもキライなら、カレシ、彼女、孫、ハムスター、息子、娘、恩師、敬愛する作家や音楽家、夏休みにおばあちゃんの家でつかまえたカブトムシ、虫かごの鈴虫、その他ひょいと姿を消して手もとから消えてしまうものなら、何にでも置き換えて読むことができる。別に命のないものでも、カバン、指輪、カネ、権力、政権、パパからもらったクラリネット、忘れてしまった音階、大好きなマンガの初版本、夏休みにパパに買ってもらったお菓子のオマケ、その他どんなものに置き換えても、このおじいちゃんの大きすぎる悲しみは心にしみるはずである。


 要するに、愛情などというものはきわめて利己的なもので、その周囲ではどんな大きな価値観も道徳も倫理も無力である。おじいちゃんはそういう世間から隔絶したところで、ひたすらネコが可哀想で悲しんでいるので、我々としてはその背中を見ながら一緒に涙を流していればいい。こんな時におせっかいな近所のオバサンがやってきて、「たかがネコじゃありませんか」「また別のネコを飼えばいいでしょ?」とかお説教しても始まらないのである。

 

1926
(「ノラや」の続編「クルやお前か」旺文社文庫1983年初版)


 すっかり子供に戻ったおじいちゃんのワガママきわまりない涙を「わがままだ」「利己的だ」「くだらん」「作家なら宇宙や人生の大問題に悩むべきだ」とか、そういうことしか言えない優しくない読者は、結局のところ、愛情の本質も見失うのである。この利己的もいいところ、ワガママもいいところのおじいちゃんは、かつてはメジロに愛情を注ぎ、フクロウやミミズクを飼い、空襲で家を焼かれて、片手にメジロの籠、片手に3合だか4合だか残った日本酒の一升瓶をぶら下げて、燃え盛る炎の中を悠然と避難した男である。

 

1927
(旺文社文庫の内田百閒が全巻そろった、クマオヤジの変な書棚)


 愛情の対象が、常にそういう方向に向かう人間を、愛情の対象が卑小だからといって非難するのは、おかしな話である。悲しむおじいちゃんの激しいワガママの渦巻きは、やがてかつての学生たちを巻き込み、担当の編集者を巻き込み、心ない中傷(どうせどこかで殺されて、カラスに食われたか三味線になったか、の類い)があふれる中で、それでもやっぱりノラが可哀想でならなくて、雨が降っても、熊本や八代に出張に出かけても、風が吹いても、とにかくノラのことだけを考えて、秋の日は暮れ、初夏の夜が明ける。


 正直に申し上げて、「ノラや」を読んだ反応として「ネコはキライです」「ネコの媚を売るような鳴き声を聞くと、ゾッとします」などという意見を新聞紙面に取り上げてしまうのは、いくら何でもひどすぎるのだ。これは1ヶ月に及ぶ連載ものだから、おそらく来週からこういう方向で話は大きく展開するのだろうが、スタートラインがいくらなんでもひどすぎたように思う。

1E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 9/10
2E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 10/10
3E(Cd) Carmina Quartet:
HAYDN/THE SEVEN LAST WORDS OF OUR SAVIOUR ON THE CROSS
4E(Cd) Alban Berg Quartett:HAYDN/STREICHQUARTETTE Op. 76, Nr. 2-4
5E(Cd) Bernstein:HAYDN/PAUKENMESSE
total m174 y1539 d3782