Wed 091028 「小学五年生」「小学六年生」が休刊する 「背番号0」、ゼロくんの思い出 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 091028 「小学五年生」「小学六年生」が休刊する 「背番号0」、ゼロくんの思い出

 小学館の学年雑誌「小学五年生」「小学六年生」が休刊になるのだという。私としては学研の「科学」「学習」以上の愛読者だったから、休刊の報はつらい。何故か「少年マガジン」「少年サンデー」「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」などを全く買ってもらえない、きわめて異色の家庭に育った。家庭も異色だったが、本人も異色。異色ぶりはその後も何十年にわたって継続するのだが、正確には「買ってもらえない」ではなくて「買ってくれとは意地でも言わない」という、たいへん依怙地な少年時代を過ごしたのである。「買ってやろうか」と父親がニコニコしても「オレはそんなものには興味がない」と呟いて、即座に誘いを断る。そういう、扱いにくい面倒なコドモだったのである。小学館の図鑑シリーズ26冊を除けば、「買ってくれても構わない」「買ってくれるなら、あえてそれを拒絶しない」という態度で臨んだのが「小学X年生」だった。


 当時この種の雑誌は「書店で買う」のではなくて「定期購読する」のが主流だった。書店に1年分予約して、書店店頭での販売より2~3日早く、自宅に届けてもらうというのが一般的。月末の夕方、家族で夕食をとっていると、遠くの方からバイクの音が響いてくる。「お、『小学X年生』が来たかな?」と察知して、腰が浮くほどウキウキしながら待ち受ける。夕食が終わるのも待ちきれずに、雑誌のマンガに熱中する。そういう、「いかにも小学生」の可愛らしさが基本、というかお手本である。


 その「雑誌をとる」「雑誌が来る」「昨日もう来た」というスタンスから、中学生になった春に「中1時代」を予約するか「中1コース」を予約するかで、「時代派」vs「コース派」に分裂、対決の図式になる。今思えば、旺文社と学研の生徒囲い込み戦争に巻き込まれていたわけだが、コドモはそんなことに気づかない。山口百恵と桜田淳子がそれぞれの広告に起用されて、戦いは高校生になってもまだ終わらないのであった。

 

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(クマどんと冷戦中のネコ2匹。アフタヌーンティー状態でクマの動向を見守る)


 しかし、当時の今井くんは今と違って(or今と同じで)、頑固一徹で、可愛げというものが全然ない。中学生になった段階で「時代だ」「コースだ」みたいなものからはすっかり卒業したつもり。「もう、ああいうものに夢中になっている年齢ではないはずだ」とか、困ったことをうそぶいていた。要するに、バカだったのである。


 その困った今井くんが、小学生時代に読んだマンガといえば「小学X年生」だけである。「サンデー」は2回だけ父親に買ってもらった。1回目は、お盆に山形県立川町清川の親戚の家に出かけ、その帰りの酒田の駅でである。羽越西線から羽越本線下りに乗り換えて秋田に帰るのだが、当時の汽車というものは言語道断に混雑していて、こんなローカル線でもやっと座れるかどうか、微妙なところだった。その混雑した2時間の汽車で、「サンデー」に読みふけった。2回目は、4年生の夏、「おたふくカゼ」で1週間休まされたとき。病気のせいもあって、しかも「おたふくカゼ」ではカッコ悪すぎて、せっかくのマンガも全然楽しくなかった。

 

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(大昔の「小学一年生」キャッチコピー「結局、子供は血のつながった他人なんだ」の制作過程。電通/新入社員ハンドブックより「クリエーティブ作業の流れ」)


 だから、今井くんは「オバケのQ太郎」も「パーマン」も「小学X年生」で読んだのである。「パーマン」の初回は、今でも忘れない。ウメ星王国の王子が活躍する「ウメ星デンカ」も、「小学X年生」だった。中でもしっかり記憶しているのが、寺田ヒロオの「背番号0(ゼロ)」。主人公の「ゼロくん」は、ずっと補欠だったから、ユニフォームに背番号がなかった。でも、一生懸命練習してついにレギュラーになり、今では1番バッターでセンターだ。で、もらった背番号が0。ゼロくんの入っている少年野球「Zチーム」の活躍が中心で、キャプテンでキャッチャーの大山くん、ピッチャー藤本くんなどというのも活躍した。身体の大きな「ゴンちゃん」は、藤子不二雄のマンガなんかによく出てくる「カバオくん」とか「ぶたゴリラ」の原型ではないかと思われる。

 

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(同上、拡大図)


 「背番号0」には、野球以外にもいろいろな冒険物語があるのだが、やはり覚えているのは野球の話。悪い大人たちがお金の力でズルをして、「お菓子が食べられる」という宣伝で選手を集めたチームとの対決などが、大いに懐かしい。「オヤツが出る」「タダでお菓子を食べられる」ということが、まだ子供たちにとって大きな魅力だった時代なのだ。


 ゼロくんのZチームとしては、そんなズルいチームに負ける訳にはいかない。妹のキミ子ちゃんがズルいチームのスパイに出かけ、どんなオヤツがでたのか、お兄ちゃんのゼロくんに逐一報告する。最初はジュースやチョコやカステラや、子供たちの憧れのオヤツが出るのだが、やがて「ジュースはなくなり、ガムだけになる」。その一言は完全に記憶している。おお、「ガムだけ」でも、当時のコドモたちには「ズルい」と映ったのである。


 やがて、Zチームvsオヤツにつられて集められたチームの決戦の日。トップバッターのゼロくんの先頭打者ホームランで幕が開き、2番吉村くん(彼ももともと補欠だったのだ)もヒットで続く。ズルい監督が激怒する中、藤本が力投、大山くんのキャプテンシーもあって、見事にZチームが勝利。「力投」という言葉を覚えたのも、あのマンガだった。

 

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(同上、さらなる拡大図)


 こういうふうで、今井くんにとって、マンガというものの接点は「小学X年生」だけだったのである。しかも、電通に入社する直前のこの雑誌のCMが、有名な「ピッカピカの、1年生」。電通の入社試験で出題されたのが、「雑誌『小学1年生』の広告コピーを書け」。お父さんがコドモを肩車した広告写真を1枚見せられ、憧れの電通から内々定をもらったシューカツ生諸君約120名とともに、コネ一切なしでココまで勝ち進んできた若き今井グマも、頑張って広告コピーを書いたものである。あの時、何を書いたか、どんな恥ずかしいコピーを書いたか、その辺は記憶にないが(実はハッキリ覚えているが)、あの懐かしい雑誌が風前の灯とは、誠に残念である。

 

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(朝日新聞東京版10月28日。「トキワ荘のヒーローたち」についての記事)


 なお、28日朝日新聞朝刊東京版によれば、豊島区立郷土資料館で「トキワ荘のヒーローたち」という企画展が開催されるとのこと。手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄らとともに、寺田ヒロオも展示の対象である。ポスターに描かれたトキワ荘の屋根で、バットを振っている小さな男子が「背番号0」のゼロくん。ま、興味があったら見に行ってくれたまえ。