Sun 091025「筑波ゼミナール」の講師時代 rob A of Bを間違えた記憶 闘志と挽回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 091025「筑波ゼミナール」の講師時代 rob A of Bを間違えた記憶 闘志と挽回

 そうやって昔を思い出しながら(まあちょっとだけ昨日の続きです)、上野で「スーパーひたち」に乗り換えて水戸に向かった。「昔を思い出す」ということになれば、水戸も東銀座にヒケをとらない。30歳、ホントに駆け出しの予備校講師だった頃に、最初に勤めたのが水戸駅南口の「筑波ゼミナール」だった。あの頃は埼玉県春日部市に住んでいて、朝9時から2コマの授業のために、春日部を6時10分発の準急で出て、北千住と上野で乗り換えて水戸に向かった。当時の水戸勤務は木/金/土。いまの東武伊勢崎線では「準急」というものはマイナーな存在になっているが、あの当時「急行」は有料の「りょうもう号」という真っ赤な電車しかなくて、準急こそが通勤の王道。6時10分発の準急でも「吊り革までたどり着けない」という恐るべき混雑だった。


 「筑波ゼミナール」ではすぐに人気講師になった。初めて体験する予備校講師で、こうまでカンタンに人気が出るとは信じられなかった。この予備校は6~7年前になくなってしまったが、あのころの「筑波ゼミナール」には、旺文社のラジオ講座講師も兼務の英語の前川裕、古典の林省之介、その他超有名講師も多く出講。当時「ラ講講師」というのがどのぐらい凄い人気と権威があったか、分からなければ40代以上の父や母に尋ねてみればいい。代ゼミその他大手予備校兼務の講師などはザラ。そんな中に、肩書きと言えば「早大卒」だけの短足ニーチャンが一人入り込んで、どうしたら人気が出るのか分からない。しかも、当時はヒゲもない。のっぺりハンペン顔の田舎くさいニーチャンである。

 

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(30歳、「筑波ゼミナール」夏期講習パンフレットに登場したのっぺりクン)


 しかし、いったん人気が出ると恐ろしいもので、「他の先生の教室をカラにする」という快感を満喫する。「今井に出るから、♡♡先生の授業は切る」という選択をする生徒が激増する。同じテキストを同じ時間で扱う先生がいて、彼はすでにベテランの先生なのだが、休み時間に盛んに愚痴を言っている。


「このテキスト、どんどん生徒が減っちゃうの。イヤんなっちゃう」。
セリフで分かるだろうが、どうも「男の人が好き」という感じの、中肉中背の男である。で、「減っちゃった生徒たち」は、実際にはみんな「今井」に出ている。誠に申し訳なかったが、30歳そこそこの若さでは、まさに勝ち誇った気分になっていても許していただきたい。


 河合塾や駿台で人気がどんどん出てきた頃だから、このたいへんな週3回の水戸勤務は1年半でヤメさせてもらったが、感謝の念だけは今でもなくしていない。予備校バブルの絶頂期で、筑波ゼミナールはその後で九州の宮崎に進出。これがうまくいかなくて、急激に萎んでしまった。地方の中堅予備校が元気で、生意気にいろいろ他の地方への進出や拡大を企てたし、当時の3大予備校が地方都市に進出しようとしても「どっこい、そうはさせないぞ」と激しく防戦に臨んだ。思えば、予備校に限らずどんな業種でも地方に勢いがあった、懐かしい時代である。

 

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(最盛期「筑波ゼミナール」夏講パンフ。モデルのポーズも時代物である)


 水戸での講演会終了後、帰りの電車まで30分ほど時間があったから、「筑波ゼミナール」の跡地まで行ってみようと思った。水戸駅南口である。週3日水戸に通った当時の面影は全くなくて、LABIなんとかいう巨大なヤマダ電機が圧倒的存在感。おそらくあまり売れていない新築マンション、電機量販の巨艦店、チェーン展開の同じような居酒屋がひしめくビル、これまたチェーン展開のビジネスホテル。今にも雨の降り出しそうな重たい曇天。21世紀初頭、日本の地方都市の典型的な風景である。


 そういう地方都市の典型的風景の中に、20世紀の残骸がポツンポツンと取り残されている。駅前再開発を何とか生き延びた「ステーションホテル」。閉店したらしい「天婦ら」の店の赤く錆びた看板。細々とではあっても、何とかまだ営業を続けているらしい予備校。「こんな大きな道路はなかった」「ここは鉄道だったはず、古ぼけた貨車が並んでいたはずだ」と記憶している場所に、新しいホテルやその巨大な駐車場ビルができていて、20世紀の残骸はますます痛々しく映るのだった。

 

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(当時の筑波ゼミナール。夏期講習パンプレット掲載写真)


 記憶を頼りに、ただしその記憶力は自分でも忌々しくなるほどなのであるが、筑波ゼミナールの跡地に向かった。3分ほど歩いて、昔通りの場所に(まあ当たり前だが)少し古びても昔通りの4階建ての建物を発見。「居抜き」で所有者がかわり、看板は「 … 高等学校」になっていたが、これは間違いなく元の筑波ゼミナールである。


 この4階の教室で、朝早くから英文解釈の授業をした。初めての授業で、まあそれなりに緊張してしまい、rob A of Bが「AからBを奪う」だったか「AをBから奪う」だか、ふとわからなくなった。迷いに迷った挙げ句、間違った方をデカイ字で板書した。すぐ目の前の生徒が間違いだと指摘して、教卓に辞書を差し出してみせた。うにゃ、ゲロ、間違えた。こりゃたいへんだ。カッとなり、冷や汗も流れた。その場をどう取り繕ったか、覚えていない。翌週からその授業はガラガラになった。200名も入る教室に、20名もいない。「アイツはアホだ」ということに決まってしまったのだ。はっは、ぐわっは、誠にダメな日々であった。


 しかし、それ以外の授業はすべて絶好調。他の有名な先生たちの生徒をどんどん奪って立ち見が続出するほどだったが、水戸の行き帰りはガラガラになってしまったそのたった一つの英文解釈の授業のことで、この上なく気が重い。もう、そのことしか考えられない。誰にでもそういう重たい日々があるものだが、ちょうどそのタイミングを選んだかのように稲葉サンという社長が声をかけてきた。「先生の授業に、もっとメリハリをつけてほしいという苦情があった」というのである。

 

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(2009年10月。居抜きで高校の建物になっていた)


 翌日すぐ、その苦情は今井の授業に対するものではなくて、同じテキストを担当する中堅の先生に対するものであったことが判明。社長は丁重に詫びてきたが、クマの闘志に火がつくのもこういうケースである。闘志は激しく燃え、劣勢だったその授業でも激しく挽回。私と混同されたその先生から「今井サン。気をつけた方がいいですよ、社長がこそこそかぎ回っているみたいで、私はひどいことを言われました」と忠告されたりした。いかにも気の弱そうな、痩せて顔色の悪い先生だった。


 ホントに懐かしい、元気な時代である。柿の実がたくさん赤く熟している民家の庭先に立ちつくして、十数年前にrob A of Bを間違えた4階の教室の窓をしばらく見上げていた。当時の生徒たちは、既に立派に社会の中堅に立っているはずである。