Mon 091019 古典的な板書授業とCGや電子黒板の関係 板書の意外なほどの創造性
さて、昨日の続きであるが、保険や不動産や証券や投資信託の営業がうまくいかない営業マンの皆さんには、今まで集めてきたデータを一回全部捨ててしまって、「データなし、ビジュアルなし、数字なし」、そういうスッキリした営業にチャレンジすることをおススメする。
うまくいかない営業マンほど、目の前にした予備知識のないクライアントを、データで押さえ込み、数字で丸め込もうとして、失敗を続けていることが多い。クライアントは、データは知らないし数字にも強くないから一見丸め込みやすく見えるけれども、実際の世の中のことを営業マンの10倍も20倍もよく知っている。若い営業マンがデータなんか示してちょっとでも上から目線でものを言えば、底の浅さを一瞬で見抜いてしまうものである。
「大慌てで、営業部や本社に貼り出された棒グラフを、明日か明後日までに2cmでも3cmでもあげたくて仕方がないだけだ」
ぐらいのこと、顧客の満足や幸福を真剣に考えているわけではないということ、それは手に取るようによくわかってしまう。
15年も昔、予備校の授業がCSに登場したころ、CS担当に選ばれた人気講師たちは、物珍しさもあって盛んにCGを持ち込み、パソコンをスタジオに持ち込んで、これを操作しながらの授業を試みた。「そうしない方が珍しい」というか、使わないのは異端者のように言われたものである。
では、CGやコンピュータ画面を使用した方が受講生の理解度は上がるのかどうか、そのことを真剣に考えたかどうか、ということになると甚だ怪しいのである。要するに、そういう新しいITっぽいものを使った方が、より大量のデータを生徒に見せることができる、というにすぎない。講師たちは、提供できるデータ量の増加が、そのままサービス向上とイコールであると誤解したのである。
そういう流れの中で、今井だけはアナログ派を貫いた。あくまで黒板一枚。CG一切なし。代ゼミと東進がスカイパーフェクTVを舞台に激しくツバ迫り合いをする中、何だか前世紀の遺物みたいな「今井の英文法入門」「パラグラフリーディングⅠ・Ⅱ」だけが、まるで20世紀の砂漠のオアシスのように、ひたすら黒板とチョークだけのアナログ授業を続けていたのである。ま、誠に申し訳ないが、これは自慢していい事柄である。
パソコン上の授業では、生徒が自分の手を動かしてノートをとれないではないか。CGでわかったような気分になっても、目の前からCGが消えた瞬間に頭が混乱して、全部忘れてしまうではないか。いきなり画面に英文が登場して、生徒がそれを書き取る暇もなく講師が画面上の英文にいろいろ書き込んでいくのでは、ノートをとるのも追いつかないではないか。
生徒の基礎力が伸びるのは、板書を書き写す地味なプロセスを通じてである。板書は、真っ黒な黒板に、全くゼロの状態から講師の創意工夫で有形のものを形成していく、きわめて創造的な作業である。
それでもあえて導入するなら、データを一切あらかじめ打ち込むことなく、「単なる黒板がタッチパネルになっているだけのもの」がいい。