Mon 091012 講演会で錦糸町にむかう 学部生時代の家庭教師&塾講師の記憶など | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 091012 講演会で錦糸町にむかう 学部生時代の家庭教師&塾講師の記憶など

 午後から錦糸町で講演会。おお、錦糸町とは、なつかしい。大学生時代の家庭教師先が錦糸町にあって、おおむかしの錦糸町はいかにも雑然としていたことを思い出す。錦糸町で降りること自体、あれ以来ほとんどなかった。10年前ほど前、錦糸町駅前の映画館で「スパイダーマン」を観たのが最後である。どういうわけでわざわざ「スパイダーマン」のロードショーなんかを観たのか、しかも何故それがよりにもよって錦糸町の映画館だったのか、その辺は余りに話が長くなりすぎるから、今日は書かないでおく。


 錦糸町で家庭教師をしていたのは、大学4年の時。週3回、錦糸町に通った。早稲田から東西線で飯田橋、飯田橋から真っ黄色の暑苦しい総武線に乗り継いで、15分ほどで錦糸町に到着。まだ錦糸町駅前の再開発が始まる以前のことで、何といっても記憶に焼きついているのが「錦糸町のトイレは臭かった」という一事である。家庭教師先でトイレを借りるのはイヤだから、錦糸町の駅でトイレを済ませるのだが、水洗式なのに、どうしてもイヤになるほど臭いのだ。あれから遥かな時を経て、あれほど臭いトイレは、カギさえマトモにかからないヨーロッパの片田舎のトイレでも経験したことがない。

 

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(本文とは何の関係もないニャゴ姉さんの耳)


 家庭教師先は、錦糸町から北に向かって徒歩15分ほど。汚い河をいくつも渡って(「河を綺麗にしよう」などという時代はまだ始まっていなかった)、もう京成線の押上駅が見えてくるあたりで右に曲がると、町工場が立ち並んだ一帯に出る。その町工場のうちの1つを経営している家が勤め先。高3と中3の兄弟を一年間、全科目教えたのである。


 とにかく大昔のことだ。彼らがまだこのあたりに住んでいるといれば、下手をすれば「生徒の父兄」という肩書きで今日の講演会に姿を見せるかもしれない。そういうことの起こりうる、恐ろしい年齢になってしまった。


 家庭教師先から帰るのが夜10時。当時の下宿が常磐線北松戸だったから、帰りは錦糸町に出ずに、押上から京成電車で金町に向かった。途中の四ツ木や京成立石の駅前には、まだ「血、買います」の看板がいくつも立っていた時代である。青砥だったか京成高砂だったかの駅で、たった3両で走る「京成金町線」の赤い電車に乗り換えた。高砂、柴又、金町、駅はそれだけである。あの頃は、まさにフーテンの寅さんの世界にいたわけだ。あらら、何だ「フーテン」てのは?

 

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(続・ニャゴ姉さんの耳。JALの垂直尾翼に見えることがある)


 アルバイトは家庭教師ばかりではない。同じ早稲田大学学生生活課で紹介してもらった塾でも講師をしていた。いまでも営業を続けている「四谷ゼミナール」がそれである。学生生活課に貼り出された求人広告では「浪人経験者に限る」と但し書きがあって、時給1800円~2300円。1200円が相場だった当時としては破格だったので、早速応募した。「応募して採用されなかったことはほとんど皆無」という超ハッタリ人生の開幕がこれだった。


 ただし、この塾はイヤだった。時給は高かったけれども、経営者のオバサンが単に意地悪なのである。本人は「徹底的に鍛えて上げる。感謝しなさい」と言っているのだが、「英語と国語と日本史なら、高校生でも中学生でも大丈夫」と言って応募してきた大学一年生に「じゃ、小5小6の算数ね」ということはないじゃないか。面積図も線分図も知らない田舎出身の文系大学生に悪口雑言を吐くことだけが趣味、そういうオバサンである。ふん。油断していたら「中学生の理科はできるか?」と来た。そういうのは「鍛える」ではなくて「塾の都合だ」とわかったのは、ずっと後のことである。


 塾は四谷3丁目、昔の文学座スタジオのすぐそばにあった。早稲田からなら山手線と丸ノ内線を使って通うところだが、キライだったから「早く着くのがイヤ」になり、早稲田から東京女子医大経由渋谷行きのバスに乗って、渋滞すればするほど、その渋滞が嬉しかった。


 まだフザケて風呂敷包みで大学に通っていて、その風呂敷包みで友人たちの度肝を抜くのが楽しみだった頃である。バスに乗りこんで、その紫の風呂敷包みを開いて、東洋文庫の「耳袋」「今古奇観」などを読みふける。あのころ、あの路線のバスは必ず渋滞に巻き込まれて、四谷3丁目まで1時間もかかるのだが、むしろそれを楽しみにしていたのである。

 

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(がんばるニャゴどんがJAL再建のお手本である)


 さて、思い出に耽るのはそのぐらいにしておこう。今日は父母のみ対象の、正式名称「特別教育講演会」である。出席者70名弱。本来なら、やはり「錦糸町」という場所に驚くべきなのかもしれない。昔風の考え方でいえば、錦糸町という街は塾や予備校が存在するようなところではない。それでも東進の校舎は存在するのである。


 北千住、綾瀬、金町、新松戸。稲毛海岸、大井町、下北沢。三軒茶屋、たまプラーザ、川崎、鶴見。赤羽、与野、北福岡。成増、小手指、武蔵小金井。「ええっ、そんな駅前に予備校があるのお?」と誰もが立ち上がってビックリするような街にも、しぶとく、粘り強く、しかも健全に、校舎を運営するのである。


 錦糸町は南口、「洋服の青山」があって、その右側の入り口から入ったビルの4階が東進である。「雑居ビルのワンフロア」というタイプの校舎を訪ねた時に、私がまず必ず確認するのが、「同じビルのテナントにどんな会社が入っているか」。錦糸町の場合は、会計事務所と法律事務所がほとんどで、あとは中学受験の日能研である。大いに健全でよろしい。


 日能研とかTOMASとか、雑居ビルのテナントという形で展開することを躊躇しない塾が増えてきたように思う。こういう控えめな展開は、決して悪いことではない。塾や予備校が、何でもかんでもデカイ独立校舎で駅前を占領するのは、古い自民党的な言葉をつかえば、「いかがなものか」である。


 さすがに錦糸町という場所柄もあって、校舎の入ったビルのすぐ横に場外馬券売り場があるのだという。おお、場外馬券売り場ねえ。そこにどんな人たちが集まるかを考えれば、予備校として好条件ではないが、あまり贅沢を言ってもいられない。しかも、津田沼とか大宮とか立川とか、そういう塾の乱立する地帯でもないのに、休日の父母会に70名近くが出席するというのだから、校舎担当者の努力は大いに称賛されるべきである。