Mon 090810 富士吉田うどんなどについての情報訂正 過去問解説に和訳が必要か | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 090810 富士吉田うどんなどについての情報訂正 過去問解説に和訳が必要か

 「ものをたくさん書けば、そのぶん不注意な間違いをおかす危険性も高まる」、これは昨日のブログの書き出しである。「もの言えば、唇寒し」とも言う。そういう書き出しをして、本来何を書こうとしていたかといえば、一昨日の記事の中に含まれる間違いの訂正だったのである。「たくさん書けばケアレスミスや事実誤認の危険性も必然的に増える」という出だしで、そういうルートをたどって、一昨日の記事の訂正にもっていくプランだったのが、気がつくと早稲田大学などで出題のますます増えていく自由英作文の話に気を取られ、熱中し、気がつくと「訂正」を忘れたまま、自分で決めた「A4版2枚」の限度を超えてしまっていた。


 さて、「訂正」であるが、8月に入ってから東進吉祥寺のスタジオで「過去問演習講座」の収録が続いており、私の担当は早稲田大学の政経・法・国際教養・文学部。毎日毎日その予習と収録が連続する状況で、話がそっちにそれるぐらいは許してほしい。昨日は午後1時から5時半まで、休み時間も入れずに法学部2009年の問題を全問解説。第1問「ガンジーの自伝に見られるインド人の自我の問題」に関わる超長文読解問題の解説に120分もかかったりして、頭の中は入試問題批判でいっぱいなのである。


 もっとも、これほど大学入試の中身が急速に変貌しているのに、予備校の英語の授業は一向に変化しないのはどうしたものだろう。いまだに「1行1行日本語に訳すだけ」が主流。それ以外の一切の工夫を拒み、正統派だとか正攻法だとかいって譲らない。というか、開き直って座り込み、早稲田の問題1問に90分授業まるまる3回かけてもまだ終わらずに、呆れて眠りこけた生徒たち相手に、講師はひたすら和訳に励み、自分一人だけ悦に入っている。


「和訳は出来る、解き方を教えてほしい、どうやったら解けるのかを説明してほしい」
「読むにしても、のんびり和訳するのではなくて、どうしたらスピーディーに読めるのか教えてほしい」
という生徒が圧倒的なのに、そういうことを言われると先生は何故か怒り出し、
「いや、お前らは完全には読めてない、いい加減な読み方じゃ、ダメなんだ」
と繰り返す。どうして和訳すれば「完全」で、和訳しないと「完璧とは、言えないな」なのか、私なんかはよくわからないが、どうも予備校では大昔から今に至るまで、そういうことに決まっているらしい。

 

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(さあ。眠りなさい。疲れきった身体をなげだして。火曜サスペンス劇場より)

 ただし、こういうことになるのは、昔から生徒の側にも問題があるのだ。「和訳は、自分で出来る。解き方を教えてほしい」と最初に言い出すのは、よくできる優秀な生徒がほとんど。彼らも彼女らも積極的な人が多いから、学年が始まって早い時期に教師に質問にきて、そういうことを言っていく。すると、今井君のようなおっちょこちょいの先生は「そうか、生徒はそういうことを求めているのか、ならば『問題の解き方』『スピーディーな読み方』を中心に授業を進めよう、和訳はしなくてもいいや」と考える。和訳抜きでいろいろ解き方に工夫を凝らし、徹夜で努力して、どんな問題にでもつかえる一般的な解き方へと洗練させていく。


 「おっちょこちょい」とは、「サービス精神旺盛」ということであって、生徒が喜べば喜ぶほど、ますます努力して見せたくなる。単なる「でんぐり返し」「逆上がり」で喜んでくれれば、「バック転」「大車輪」を見せたくなり、それが喜ばれれば「月面宙返り」「シュタルダー」「リアミドフ」みたいな昔のウルトラCを繰り出し、それでも足りずに最高難度のワザを開発してみせたりする。もちろん喝采はその度に大きくなり、講師の盛り上がりはの絶頂を迎えることになる。

 

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(さあ。眠りなさい。疲れきった身体をなげだして。岩崎宏美「聖母たちのララバイ」より)

 ところが、そういうのを見て喝采しているのは、実は少数派なのである。最初は黙して語らない多数派の生徒たちがいて、まあ彼ら彼女らは選挙でいえば無党派層。この無党派層が圧倒的多数を占めるのは、いずこも同じだ。
「構文をとって、和訳して、昔ながらの方法で、たくさん時間をかけてじっくりやりたい」
という生徒たちである。彼らから見ると、そういう難度の高い話は、「自分にはカンケーねえ」のであって、
「そんなのカンケーねえ」
「怪しいテクニックばかりだ」
「怪しいことをやって、生徒を洗脳しようとした」
ということになる。
 ある程度以上の人気や評判を獲得し、評価の定着した講師ならいいが、アンケートの数字で「クビ」のちらつくような中途半端な講師だと、そういう評判はまさに命取り。ほとんど命懸けで
「オレは、正統派だ、うん」
「正攻法でナイト、うん」
「どんな超長文でも、結局は1文1文で出来ているんだ」
「ちゃんと訳せないんじゃ意味がない、うん」「うん」「うん」
と、自分の発言に自分でやたら懸命に頷きながら、眠る生徒を相手にひたすら和訳に夢中になってみせる。もちろんそんな授業はつまらないから、教室はガラガラ、気がつくと200名教室には30名も残っていないのだが、ま、何とかクビの皮だけはつながるのである。

 

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(起きてくるな。)


 わが「過去問演習講座/早稲田篇」では、和訳を省略している。早稲田や慶応を受験するほどの受験生が、過去問に取り組む段階になっても、いまだに「和訳がないとわからない」などと、根性なしに(または「へたれ」になって)和訳に頼りワガママを言っているようでは、ダメなのだ。和訳という補助輪を外してもらって、自転車を支えてあげるお父さんの手を離してもらって、まるで飛行機が離陸する瞬間のように、英語の文面だけでグーッと急上昇する感覚を知ってほしい。その時、合格が本当の現実味を帯びてくるのである。


 さて、「一昨日の記事の訂正」であるが、昨日の記事の中で訂正すべきであったにもかかわらず、また今日の記事の中ですべきであったにもかかわらず、話がそれているスキに、すでに自ら設定したブログの分量を超えてしまった。誠に申し訳ないが「一昨日の訂正」は、明日の記事の中ですることにする。もちろん、お気づきとは思うが、わざとやっているのである。