Sun 090809 早稲田大学の自由英作文問題について 出題者は、18歳の頃これが書けたのか? | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090809 早稲田大学の自由英作文問題について 出題者は、18歳の頃これが書けたのか?

 ものをたくさん書けば、そのぶん不注意な間違いをおかす危険性も高まる。生徒の自由英作文を添削していると、「こんなに頑張ってたくさん書くから、ケアレスミスも増えてしまう」「こんなに難しいことを書こうとして頑張りすぎるから、内容面では驚くほど素晴らしいのに、ケアレスミスでどんどん減点されてしまう」という答案に次々と出会うものである。「こんなに立派なことを、真剣に論理的にしっかり書いているのに、いくら何でも可哀想だ」と思うのだが、頑張って書けば書くほど基礎的な部分に注意が回らなくなるらしく、「ピリオドがついていない」「文の途中に大文字が出てきている」「単純なスペルミス」という中1でもなかなかしないようなミスを繰り返して、その程度のことで、配点8点または10点のうち、3点も4点も減点されてしまうことは珍しくない。


 早稲田大学で2009年に出題された自由英作文は、
政経学部:スーパーのレジ袋を廃止することに賛成か反対か
法学部:若者の公共の場所でのマナーは悪くなったか否か
国際教養学部:権威の盲目的尊重は真理の最大の敵である、ということをどう考えるか
「解答欄が小さいから、あまり大したことは書けない」と言って生徒を勇気づけてはいるけれども、それでも政経学部なら、1行15cm×15行。100words以上の英作文になる。どの学部も「1つのパラグラフを書け」と指示しているから、どうやら「パラグラフ・ライティング」のような高等技術を要求しているという気配である。


 こういうレベルの高さは、20年も30年も昔に早稲田大学を受験した大人には驚くべきものだろう。1980年代になっても、1990年代半ばまで来ても、常識的には「国公立は記述論述、私立は客観式の記号問題」。大量の受験生が受験する早稲田や慶応で、こんな大量の英作文が出題されるなどとは、夢にも思わなかった。大量の答案を短期間で採点しなければいけないのだから、ほとんどは記号1つで決着のつく問題。英作文の問題を出題するとしても、どうしても解答が1つだけに集約されるような、窮屈きわまりない出題形式にして、とにかく採点の手間を省く。今の受験生のママやパパに尋ねてみれば、早稲田慶応その他の私大について、そういうイメージしかもっていないはずだ。

 

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(2匹は、きっと仲良しである)


 国立は記述論述の難問、私立は記号式。だから英文が大量に出て、超長文が3問も4問も出題されても、記号で答えるだけなんだから大したことはない。いまだにそのイメージのままで受験指導に当たっている高校や予備校の先生だって少なくないはずだ。研究不足にもほどがあるが、逆に出題するほうも出題するほうである。90年代なかば、初めて「自由英作文」なるものが出題されたころは、もっと牧歌的だった。「親子丼とは何ですか、英語で説明しなさい」「カラオケとは何ですか」とか、4コママンガを見せて「何をしているところか説明しなさい」という程度。単語数も、40語から50語がせいぜい。それがこの10年でここまで進化してしまった。


 出題者に対して正直に言わせてもらえば、「それではあなた自身、受験生だった頃に、こういう英作文を自由自在に書きこなせたんですか?」である。私ぐらいの年齢になると、大学時代の友人知人の中でも、出世頭はやたらに偉くなっている。国家公務員になった連中には、課長や審議官クラスをそろそろ卒業して、局長のイスを狙い始めるヤツだっている。一流企業に就職して、すでに部長のイスで偉そうに(またはイタズラっぽく)ニヤニヤ笑っているヤツも少なくない。リストラされ起業家になって成功しかけている波瀾万丈のヤツもいれば、そろそろ弁護士稼業に飽き飽きして「どっか大学教授になる口でもないかな?」と眠そうな目でほざくヤツもいれば、大学一筋でここまで来て、早稲田大教授、東京大教授、一橋大教授、おやおや、人も羨む教授職について、准教授やオーバードクターを毎日虐めている悪いヤツらだっている。しかし、では彼らが受験生時代にこんな英作文を楽々書きこなしていたかと言えば、思い出すと噴き出しそうになる程度の英作文しか書けていなかった、それが実情である。


 その間、英語教育に格段の進歩や進展があったというなら話は別である。しかし、建前が支配する高校教育の場ならいざ知らず、本音と数字が何よりも優先する予備校の現場で15年も仕事をしてきた人間として言わせてもらえば、毎年教える生徒たちの英語学力はほぼ右肩下がりで低下してきたというのが実感。それに対して、上に例を挙げた自由英作文以外に、超長文読解問題でも、「明らかに無理をしている」という出題ばかりが目立つのである。

 


(「仲良し」は、見せかけだけだったかもしれない)


 読解問題の中身にも、大いに疑問だと言わざるをえないものもある。例えば、2009年早稲田大学国際教養学部の第2問。読んですぐに感じるのは、「アメリカメジャーリーグのしくみについて知っている受験生と知らない受験生とで、大差がつくのではないか」ということである。詳しくは実際に問題文を読んでほしいが、メジャーリーグファンの男子学生と、そんなことには全く興味のない女子学生とが同時にこの問題に取り組んだら、その有利不利は余りにもハッキリしている。私の授業では再三指摘していることだが、「だからスポーツや芸能まで含めて、何にでも興味をもってテレビや新聞を(もちろん日本語でOK)よく見ておけ」なのである。「マイコー」でさえ、出題されかねない勢いと言っていい。
 15年前には受験生の学力の実態といくらかは噛み合っていた大学入試の英語が、今ではほぼ受験生の実力と触れ合うところがないレベルまで難化してしまい、「その大学の学生に全くヒケをとらない実力はあるのに、いくら勉強しても入試で合格点に達しない」とか、逆に「何かのハズミで偶然合格してしまい、入学後まもなく授業についていけずに退学を考える」という悲劇を招いているような気がしないこともない。
 何でもかんでも「昔はよかった」というのは、年をとった証拠である。私だって、「昔の入試問題がよかった」と無条件で懐かしむつもりで言っているのではない。ただ、出題者である大学教授の「こうだったらいいのになあ」という夢想に基づいて問題を作成されたのでは、受験生が可哀想である。彼らの学力実態を見極め、それにふさわしい問題に留める努力は、英語教育を向上させる努力に並行して、忘れられるべきではない。