Tue 090714 政経学部のゼミで「泉鏡花」をテーマに発表した阿呆の物語 「どっか行く?」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 090714 政経学部のゼミで「泉鏡花」をテーマに発表した阿呆の物語 「どっか行く?」

 ところが、福原ゼミのOB&OG会は、先輩ヅラして切り抜けられるほど甘くはなかった。もっとも、出だしで「ところが」と言っても、何に対して「ところが」なのかサッパリ分からないぐらい更新が間延びしてしまったが、とりあえず前回のブログの続きなので「ところが」で始めさせてもらうことにする。しばらく更新できない日が続いてしまった。熊本、姫路、大阪、千葉と講演会が連続し、梅雨前線よろしく西から東に横断し、途中でちゃっかり京都に立ち寄って祇園祭を満喫し、その間を縫って参考書ゲラの校正500ページ分を一気に片付け、そういうことで忙殺されているうちに、現実の日付とブログの日付が1週間食いちがうという事態に立ち至ったのである。誠に申し訳ない。

 

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(内容とは関係ないが、昨日までの写真の流れで。1997年度代々木ゼミパンフレットより。移籍初年度の今井君である。福原ゼミ卒業から長い年月が経過すれば、もうすっかりオジサンになってしまう。それにしても、この不真面目なコメントは何だ?)

 つまり、ゼミの諸先輩がたが居並ぶ前で、思いもかけず「乾杯のご発声」をやらされてしまった後は、焼酎のボトルとお湯のポットを抱え込み、これを命綱にして握りしめていれば、大学生時代の恥ずかしい過去に触れられることなく、楽しく酔っ払って一晩を過ごせるだろう、という小ズルい戦術に出て、顔見知り2~3人を相手にこそこそ立ち回り始めたのである。しかしやはり「天網恢々粗にして漏らさず」。今晩は出来るだけ敬して遠ざけていた福原教授が、まさに突然大広間を横切って、私の前にお座りになり、「今井君の恥ずかしい記憶」を、ニコニコしながら懐かしそうに語りはじめられたのである。


 「今井君は、作家になるだろうと思っていたよ」の一言で始まった「恥ずかしい記憶」については、さすがに恥ずかしすぎて詳しくは語れない。いくらでもある恥ずかしい記憶の中なから、1番大丈夫そうなのを選りすぐってここで語り、それで罪滅ぼしをすることにする。神聖なゼミの発表の場を、今井君一人で5週間にもわたって完全にジャックした記憶である。教授も1番嬉しそうにそれを語った。


 延々と私の発表が連続したのは、学部2年の11月から12月にかけてのゼミ5回分である。ゼミ全体のテーマは「ヨーロッパの復権」だったのに、この時の私の発表テーマは「泉鏡花とネルヴァル」。腰が抜けるほど恥ずかしいが、東西の幻想文学を比較しつつ、幻想の論理の構造を述べ、リラダンやカフカを論じ、近松門左衛門を論じ、最後に何とか「ヨーロッパの復権」を、申し訳程度にねじ込んだ形になっていた。

 

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(会の中締めで挨拶に立たれた福原教授)


 レジュメはB4版50枚。コピー機にソーターもなかった時代、ゼミの出席者15名(2年生対象のゼミだが、3年生4年生のゼミOBもたくさん出席していた)分をコピーしてホチキス止めするのに一苦労したほどである。このレジュメを材料に発表するのだから、始める前から「ゼミ3回分は自分のもの」という予感はあった。


 しかも、私は「レジュメを読み上げるだけ」という発表は大キライ。今も昔も、学部でも大学院でも、ダメな学生の発表は「レジュメの文字を原稿のように読み上げるだけ」というのが多いし、教授たちの授業だってゼミだって、やっぱりレジュメやノートや自分の著書を原稿にして「読み上げているだけ」という形式が少ないとはいえない。しかし、正しくは「あくまでレジュメはレジュメ」であって、言わば発表の「目次」のようなものである。目次だけ読んでも読書にならないのと同じように、レジュメを読み上げても発表にはならない。レジュメ1行に対して、5分でも6分でも詳細な発言を付け加えるから、あの時の私の発表はまさに延々と連続して、いつ終わりになるのか見当もつかないほどだったのである。

 

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(教授に記念品をご説明する)


 福原ゼミは、金曜の5時間目。終了は正式には17時だが、毎回議論が熱して、18時過ぎまで続く。政治経済学部なのに、中世ヨーロッパだのルネッサンスだの、文学だの音楽だの美術だの、フロムだのシャガールだのムンクだのグレゴリオ聖歌だの、そういうものを論じるゼミに出席している学生たちだから、当然「うるさがた」が多いのである。卒業後の進路をみても、出版社・新聞社・ライター、そういう「うるさがた」の大好きそうな就職先が圧倒的に多い。「うるさがた」が静かな教授の研究室に集まって、貧弱な知識を材料に、好き勝手な思いつきを好き勝手に論じているわけだから、議論が楽しくて仕方がない。17時終了の予定が18時になり、19時を回るのは、むしろ当然だったのである。
 

 で、18時になり19時を回れば、「黙ってそのまま帰る」などという情けないことをするわけがない。3号館の階段を下りきって外に出たところで、教授はほぼ毎週確実に「どっか行く?」と我々に尋ね、そりゃ「どっか行く」に決まっていて、それが楽しみで出てくるようなヤツらばかりなのだ。大学周辺か高田馬場か池袋の「どっか」に行って、研究室での議論の続きみたいな、そうでもないみたいな、曖昧な議論が深夜まで続いていくというのがお決まり。たいていの学生は途中で帰ったが、今井君は必ず最後まで残って、終電がなくなればなくなったで、そのまま2~3人と始発まで「どっか」で過ごした。


 私にとって福原ゼミはそういう「どっか」の集合体で構成されていて、そういうダメなゼミ生の好き放題をどこまでも許してくれたのが、福原教授の限りない優しさなのであった。今思えば、旧制高等学校の寮のような雰囲気。そういえば教授は今でも旧制高校の寮歌祭に参加されているほどのカタである。どこかでニヤニヤ笑いながら「どっか」を満喫している我々を楽しく見守っていたのかもしれない。というか、そのニコニコしたこの上なく嬉しそうな視線を、「どっか」で何度も拝見したことがある。