Fri 090710 高宮行男氏、死去 彼以前に浪人生文化はなく、彼の後に浪人生文化はない | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 090710 高宮行男氏、死去 彼以前に浪人生文化はなく、彼の後に浪人生文化はない

 もう10日も2週間も前のことになるが、高宮行男氏が死去された。代々木ゼミナールの創業者であり、つい10年ほど前まで実質的経営者であった。

 代々木ゼミナールの正式名称は「高宮学園」であって、講師たちへの給与明細は「高宮学園」で郵送されてくるのだし、その高額報酬を税務署に届け出る時にも、印税など雑収入以外は「高宮学園」での届け出になる。

 全国におそらく1000人は存在する代ゼミ講師は、みんな高宮行男氏から高額の報酬を受け取っていたのであって、高宮氏死去の報にはさぞかし嘆きは深く大きなものだったであろう。

 私はもう代ゼミを去ってしまったから、内部のことはよくわからないが、「ゼミ葬」「学園葬」のような葬儀、もちろん講師ばかりでなく、生徒や夏期講習生まで参加しての盛大な葬儀が営まれたことだろう。

 私が駿台に見切りをつけて代ゼミに移籍したのは1997年春である。移籍の話があって高宮氏にお会いしたのが1996年8月末。死去された年齢は92歳と報じられているから、引き算するとあの頃はまだ80歳、カクシャクとしておられた。

 お会いする前に、既に教務本部長のレベルで移籍についての事務的な話はすっかり決まっていたし、統括総局長・松田氏などとは銀座にお酒も飲みにいき、クラブでカラオケも歌って、これからの代ゼミライフをさまざまに語り、さまざまに聞かされて、完全に心も決まり、高宮氏との会見は要するに儀式に過ぎなかった。

 夏の終わりの、当時の(もちろん当時は「代ゼミタワー」などというバカバカしいものは存在しなかった)代ゼミ最上階で、午前11時にお会いし、松田氏なども一緒で「昼食は、ここでみんなでウナギを食べようではないか」ということになり、あの場には6~7人の人間がいたが、出前の鰻重を、何故か全員無言で、ワシワシ音がするほど夢中で食べた。

 誰も何も言わず、「何か言わなければ気まずくなるな」などということも全く思わず、深い重箱の隅を見つめながら、いい歳をした男たちが、夢中で無言で、ひたすらウナギをかき込んだ。高宮氏に関する私の記憶は、何と言ってもあのウナギの記憶である。

 

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(内容とは無関係だが、同時期に壊れて動かなくなってしまったCDプレーヤー。この8年よく働いてくれた。MDプレーヤーなどというレトロなものもついている)

 予備校生独特のつまらない噂話やつまらない悪評もあった。なぜ国学院大学だといけないのか全く理解できないが、「アイツは、予備校の理事長なんかしているが、本人は実は国学院大学卒業らしい」ということになっていて、「だから何なんだ?」と聞きたくなるけれども、講師のウワサになればどんな講師でもすぐに「アイツは学歴詐称!! 実は♡♥♡大学卒業だ!!!」と言って鬱憤を晴らしたつもりになる、今の浪人生たち独特の文化のさきがけになられた。

 悪口を言っているつもりで「代々木ゼニトール」などと言ってみるのもまた浪人生文化独特。「日々是決戦」のキャッチフレーズも、彼らによれば「日々是集金」ということになった。

 生徒として1回だけ参加した夏期講習で(ものすごい大昔のことになるが、数学の土師講師と板垣講師の授業だった)キレイな机1面に「日々是集金 代々木ゼニトール」と落書きがあるのをみて愕然。「やっぱり駿台でなきゃダメなんだな」と地方から出てきたばかりの18歳の私は思ったものである。

 代ゼミの教室ならどこでもたくさん貼り付けてある「親身の指導」「一流の教授陣」「立派な設備」などの標語も、おそらく高宮氏の発案。昔は予備校の講師のことを「教授」と呼んだし、実際、大昔の代ゼミの講師は早稲田大学の教授だった西尾孝先生を始めとして「実は本職は大学教授」のカタが多くいらっしゃった。

 在籍する大学のことを「本務校」などと呼び、予備校はあくまで副職ないしはアルバイト、ホントはそんな下劣な職業につきたくはないけれども、「理事長に熱心に請われたから、その熱意や男気に感じるものがあって、致し方なく」というスタンスで予備校の教壇に立っているヒトたちのほうが主流。「教授陣」とでも呼ばなければ、腹を立ててヤメてしまう、そういうことだったのだろう。

 

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(先代の代わりに居座ることになったBOSE社製のCDプレーヤー。もはやMDのMの文字もない)

 いつの間にか、そういう「教授陣」は予備校の世界から姿を消してしまった。高宮氏からすれば信じがたいことだっただろうが、「将来は予備校で働きたい」「ボクの憧れは、予備校講師」など、恐るべきことを真顔で言い出す世代が台頭し、アンケートの数字ではとても彼らに敵わなかった「教授陣」は、ロートル扱いされ、寂しく「本務校」に戻っていった。

 それが80年代から90年代前半。「教授陣」が去って、予備校の世界は急激に幼児性を高めた。金ぴか先生、チャイナドレスの女性講師、英語の授業をハードロックの歌詞ですすめる先生、紫のスーツ、ピンクのスーツ、オレンジのスーツ、真っ赤なスーツ、売れない演歌歌手のような格好で実際に歌いまくる先生方。そういうことになれば、「代ゼミ生は、全然勉強しない」「浪人して、代ゼミに行ったら、もう終わり」というのが定評になっていったのも当然だっただろう。

 受験の世界を席巻していた旺文社(20代以下のヒトには信じがたいだろうが、1970年代には「旺文社模試を受けない人」など想像もできないほどだったのだ)を駆逐して、予備校文化を作り上げた、天才・高宮行男氏としても、このあたりから先は想定外だっただろう。

 要するにこの辺からが「老い」だったのである。私が代ゼミで過ごした8年間は、高宮氏が老い、代ゼミが急激に時代遅れになり、浪人生の予備校が塩をかけられたナメクジみたいに急速に萎んでいく8年間だったのかもしれない。

「立派な設備」「ぼく達の正月は3月だ」など、キャッチフレーズも時代物というか、なんだかレトロな感じになってしまった。「立派な設備」は中規模予備校でさえ当たり前のものになったし、「正月」などというものを楽しみにしてそれを「3月まで延期して勉強に励む」ということに悲壮感を感じる生徒はいなくなってしまった。

「『ぼく』がひらがなで『達』が漢字なのがムカつく」と言う生徒もいた。第一「ぼく」なんて、日本の悩み多き小説の主人公か、引退した社長さんでもなければ、一人称として使うヒトは稀だろう。

「代々木ゼミ方式」というのもあった。代ゼミから出版される全ての参考書は、そのタイトルの頭に「代々木ゼミ方式」と入れなければならない決まりになっていて、私の参考書も「代々木ゼミ方式 パラグラフリーディング」だったり「代々木ゼミ方式 英文法入門」だったりした。やっぱり、寂しいレトロ感が否めない。寂寥感といってもいい。

 やっぱり古くさいというか、時代にそぐわないというか、昭和を通りこして「大正な感じ」。20年ぐらい昔「モーニング」に「大正野郎」というマンガが連載されていたが、あんな感じである。「カテキン式」というお茶も昔あったねえ。まあ、似たようなものである。

 

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(内容とは無関係の小型扇風機。私の部屋もエコの時代である)


 浪人生文化が衰退し、おそらくあと10年もして消滅すれば、こうして変遷を経てきた巨大予備校は「大量のデータの所有者である」ということを除けば、その存在意義を失う。

 2009年7月、どの予備校も浪人生の数を大きく減らし、講師の持ちコマ数も激減し、夏期講習はちっとも締め切りにならず、ほとんどはガラ空き。せっかくクラス分けしても結局は合併授業になっているというのが現状である。

 4クラス5クラスの合併授業なんて珍しくも何ともない。地方の校舎でサテライン授業になれば、ほとんどその校舎の全クラスが一堂に合併して画面をみる。

 一代の傑物・高宮行男氏が、衰退を最後までごらんにならずに天国に旅立たれたのは、彼にとっては幸せなことだったのだと思う。彼以前には、予備校はあっても浪人生文化はなかった。彼の死去とともに、おそらく浪人生文化も消えていくのである。

 10年前のパンフレットを見ると、高宮行男氏が得意満面で受験生たちに破魔矢を手渡している写真が掲載されている。「正月特訓」の光景である。満面の笑みからは、彼がどれほど浪人生を愛し、どれほど浪人文化を愛したかが伝わってくる。

 お正月に授業があれば、昔は講師たちにも酒や餅や寿司が振る舞われ、代々木は華やいだ雰囲気に包まれ、まさに「我が世の春」を謳歌した。その1時代を築いた傑物の死去に際して、かつて代ゼミに関わった全ての人間は、生徒として関わった者を含めて、いま合掌すべきなのである。