Sun 090621 大宮・予備校戦争の歴史 消えていった予備校たち 「慶応進学会」のこと | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090621 大宮・予備校戦争の歴史 消えていった予備校たち 「慶応進学会」のこと

 19日、大宮で講演会、出席者120名ほど。いつもの通り大爆笑の連続、21時終了まで汗をビッショリかいて、大いに楽しく過ごさせていただいた。大宮の状況は先週の津田沼とほぼ同じである。駅前に3大予備校の支店が林立し、中小予備校もそろって拠点校を構えている。

 ただし、津田沼よりも商圏が幾分広くて、いくらか開放感があること、予備校支店戦争がそろそろハッキリと終焉を迎えつつあることが、津田沼との違いである。駅前の巨大雑居ビル「アルシェ」で営業していた「城南予備校大宮校」が2009年春に完全に閉校したのは、時代の変化を如実に感じさせる出来事だった。

 この時代の首都圏で、横浜・大宮・千葉・町田の4地区から撤退する者があるとすれば、それは1つの企業にとってばかりでなく、業界全体にとっても衝撃はきわめて大きいのである。まあ、そこまで言わないにしても、マイクを使った大教室でのマスプロ授業形式を批判しながら成長を続けていた中規模予備校の勢いが、そろそろ終わりになったことぐらいは十分に実感させる。

 筆者の手許に1993年版の河合塾入学案内書があるが、93年の段階で河合塾大宮校は「認可申請中」となっている。ほんの15年前、大宮での予備校支店戦争には、まだ河合塾が参戦していなかったのだ。

 むしろ、大宮での予備校戦争の主役は、1980年代にはまだ「一橋学院早慶外語」。80年代前半に埼玉県で高校生だった人たちにとって、「予備校の模擬試験を受けにいく」「予備校の講習を受ける」とは、大宮東口から徒歩20分も行った先にあった一橋学院を指していたのである。

 そうやって歴史をたどれば、今だからこそ熾烈に見える予備校支店戦争も、根も歴史もたいへん浅く、かつ浅いままに終わってしまう可能性が非常に高いシロモノに過ぎないのだ。

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(どれ、アクビでもしますか)


 その後、大宮駅西口を出てすぐ左に曲がった住宅密集地に、3階建ての小さな駿台と4階建ての小さな代ゼミができて、「大宮の駿台じゃダメだよ」「代ゼミとは言うけど、大宮校じゃいい先生は来ないよ」という、根も葉もないキツい地元のウワサに虐められながらも、さすがにこの2社はジワジワと浸透。この通りは塾と予備校が密集する、「埼玉県版・親不孝通り」になる。

 河合塾はいつもの通り、「アトダシじゃんけん戦術」に出る。つまり、先行2社の様子をじっくりとうかがい、SとYの評判がある程度悪いほうに定着した時点で、「ウチは、ちょっと違います」という売り方で出てくる。これは横浜でも関西でもお馴染みである。

 一定の市場が開拓され、先に争っていた者たちに疲労が見え始めた頃に後からやってきて、「ウチは違います」宣言をしたほうがある意味でラクなのは、どんな業種でも同じことである。

 大宮という街自体が、30年前まではまだ「戦後のドサクサ」の匂いを色濃く残したラビリンスのような場所だったことも確認しておきたい。もともと大宮は東口の街だった。

 高島屋も、今はなき西武や十字屋も、大宮の老舗はみんな東口にあって、西口は昭和52年だったか53年だったかの大火でラビリンスが燃え尽きてしまうまで、雰囲気も実際もまさにラビリンスそのもの。北側の大成町にあった国鉄大宮工場を中心に、小規模の店舗にパチンコ店やいかがわしい感じの飲食店も軒を並べ、戦前戦後そのままの姿で重なりあう市街地は、「再開発して高層ビル(現ソニックシティ)にするまで、しばらく我慢」という感じであった。

 そこへ大火事が襲い、その地域だけまるで定規で線を引いたかのように誠にキレイに燃え尽きて、その10年後にはソニックシティに変わってしまった。ちょうどその火事の時に私は大宮市桜木町に住んでいて、大火の大騒ぎを間近で直接体験していたのである。

 だから、いま塾や予備校が密集している西口一帯は、もともとの地元のヒトビトにとっては余りいい印象の残っている土地ではないのだ。もちろん、埼玉の大宮に昔を知る住民がどのぐらい残っているか、微妙な問題であるが、河合塾が東口に、しかも駅前から相当離れた一見不便な場所を選んで93年に「認可申請」したのは、それもまた巧みだったと言っていい。いかにも「西口の醜い予備校戦争とは無縁です」という、涼しい顔で悠然と立っているような印象も保てたわけである。

 

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(猫マフラー)


 90年代半ばから後半にかけては、大宮駅西口は「慶応進学会騒動」に見舞われる。影も形もなかった「慶応進学会」という新興の予備校が、突如として大宮西口に店舗を急速展開。大宮の賃貸ビルが本拠なのに、テレビCMが全国放送でガンガン流れ、北野武の深夜番組を「一社単独提供」でジャックしてしまったり、CX「笑っていいとも」その他、昼の時間帯の人気番組でも大量のCMが入ったりした。小林克也のナレーションで「偏差値40からの大学受験」を連呼。これが連日連夜、地方のテレビにも流されて、予備校バブル末期の浪人生が、地方から大量に大宮に流れ込んだ。SやYとしても、とても看過できない状況になったのである。

 同じような時期に業界参入したのが、「大宮予備学校」である。名前を見ても一目瞭然だが、ターゲットは駿台予備学校大宮校への来校者。当時、駿台の校舎担当者ともよく話しあったものだが、ここの営業は見ていて噴き出したくなるほど楽しいものだった。

 校舎は、駿台大宮校のお隣。看板も学校名もそっくり。派手なユニフォームを着せられ厚化粧したコンパニオン風の若い女性が「大宮予備学校」の案内書を手に、駿台を訪れた浪人生や高校生や父兄を1本釣りするのである。まあ、経営規模がもともと小さいから、うまく釣られるヒトが100人に2人でも3人でも存在すれば、十分にペイする。

 釣ってしまえば、あとは徹底的に面倒を見て、それこそ偏差値40どころではなく30でも20でも、そこからの大学受験を目指していくのだ。受験バブルの崩壊で、それまでの中堅校や難関校がどんどんカンタンになっていった時代。時代にも恵まれ、釣られた生徒が1年後に奇跡の合格を達成するケースも出て、この学校は地道に成長した。「大宮予備校」と名前も変わって、今でも埼玉を中心になかなか健闘しているようである。

 こうして、歴史も内容も浅い大宮西口予備校戦争は、いつの間にか「痛み分け」みたいな形で雲散霧消しようとしている。大手3社に勢いがないのは、程度の差こそあれ一緒である。みんな大きく生徒数を減らしている。

 中堅も「城南予備校」が撤退するし、例外的に勢いがあるという学校も見当たらない。中でも劇的だったのが「慶応進学会」。CMどころか、学校自体がいきなり姿を消して、あれから10年、すでに影も形も記憶さえ存在しない。登場も消滅もあまりに突然すぎて、人の記憶にさえ残らなかったようである。

 19日の夕方、そういう歴史を思いながら、東進の8階の講師控え室から西口の人の流れを見下ろしていた。金曜日である。埼玉ばかりではなくて、栃木や群馬の人々にとってもターミナル。多くの企業の支社なり支店なり営業拠点なりが集中しているこの街の歴史を思うと、何だか戦後の日本の歴史を凝縮したように感じたりもする。

 雨模様の梅雨の夕暮れだったからかもしれないのだが、駅前のペディストリアンデッキを歩く人たちが、何だかみんな疲れきり、うなだれて、足を重そうに引きずって歩いているように見えた。

 西口発展の象徴だった「そごう」が、すっかり煤けてかつての栄光を感じさせないのも、黒く汚れが目立つ駿台や代ゼミの建物が「もうダメだ」とでも言いたげに夕陽を背に黒々と寂しげに立ち尽くしているのも、30年も前からこの街を知っている人間にとっては、何だか悲しくなるような風景であった。