Wed 100113 塾の理想は「自分で教える生徒は自分で集める」という若い先生である | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 100113 塾の理想は「自分で教える生徒は自分で集める」という若い先生である

 それでもまだ2005年2月のオランジェリー体験について書いておきたいことが残っているのだ。街から溢れ出すほどたくさんのしつこいチケット売りについて、旅行ガイドブックなどではかなり厳しい意見が掲載されていて、読者投稿として「ご用心」「注意すべきです」「相手にしてはいけません」など、ウィーンでの警戒対象情報になっている状況であるが、経験者としてのカニ蔵くんは「いくらかプラス評価をしてあげてもいいのではないか」と考えるのである。
 まだ社会的に評価されていない若い演奏家が、自分の演奏を発表する場を確保したいとしたら、「自分の客は自分で集める」ぐらいの根性があっていい。演奏家やその友人たちが協力して、街に出て懸命にチケットを販売し、自分のため、あるいは友人である演奏家のために、1人でも多くの聴衆を集める。氷点下の雪の中でも、真夏の炎天下でも、「自分の聴衆は自分たちで集める」ことに1日中努力する。おお、素晴らしいことである。
 もちろん、ニューヨークのセントラルパークで演奏している若者たちや、パリやロンドンの地下鉄構内に楽器を持ち込んだストリートミュージシャンも決して悪くないが、努力してチケットを販売し、こんなに立派な会場を確保し続けているオランジェリーコンサートの皆さんも、また同様に立派なのである。

(ウィーン、クリスマス市の「ホットポテト」。ジャガイモをヤケドするほど温めて、思い切りチーズを突っ込むだけのドイツ流ファストフード。テーブルの上には雪が積もっている。本文とはほぼ無関係です)

 こういうのは塾で教える若い先生方の手本にもなると思うのだが、志の高い講師なら「自分で教える生徒は自分で集める」という姿勢を貫いてもいい。自分たちの演奏が聞いてもらうに足る素晴らしいものだと信じるなら、そのためにチケットを販売するのは大切な努力である。同じように、塾の講師として、自分の授業が生徒たちに受講してもらうに足る価値のあるものだと信じるなら、街に出てチラシを配り、それを見て試しに来校した生徒や父母にも懇切丁寧に説明して入塾してもらう、そういう努力こそ最も重要な基本動作である。
 若い先生方がそういう努力を怠って、生徒集めや営業努力を人任せにする、それどころか広告宣伝や営業活動を「講師本来の仕事ではない」と突き放したりするのは、本質を理解していない証拠、または自分の授業に自信がない証拠である。生徒の立場から見る時も、「あ、宣伝だ!!」「あ、自慢だ!!」「あ、営業活動だ!!」とか、そういうニヤニヤ顔で勝ちほこり、「塾や予備校が宣伝や広告をするのは、どうかと思う」とか友人と言い合っているのは、実はよくわかっていないのだ。いい授業をして、ちゃんと成績を上げている予備校がそのことを熱心にわかりやすく広告するのは、「だからこそ素晴らしい授業を受けにきてほしい」という熱意の現れである。
 ま、いいダイコンを作ったら、どんなに旨いダイコンなのか懇切丁寧に説明してそのダイコンを食べてもらうのは、農業従事者の熱意の現れ。旨いイタリア料理を出せるなら、いろんなメディアを通じて「旨いですよ、こんなふうに旨くて、他のレストランとこう違うんですよ」と潜在的な顧客にわかってもらうのは、やはり料理人の熱意の現れと言っていい。

(ウィーン、クリスマス市のホットポテト・スタンド。ちらつく雪とともに。本文とは完全に無関係です)

 評判がある程度以上定着して、広告宣伝しなくても客が集まるようになる前の、若く優秀な人間なら、この努力を欠かすことはできない。むしろ、腕組みしたまま何の努力もせず、「来ないのは客が馬鹿だから」とうそぶいている寿司屋は大成しない。「このキャベツを食わないのは、客がアホだから」で済ませてしまう八百屋のキャベツは、もともと旨くないのである。
 だから「自分が教える生徒は、自分で集める」。塾の基本である。それは「龍馬伝」みたいなドラマでみる江戸時代の塾でも同じことで、吉田松陰だって佐久間象山だって緒方洪庵だって、最初から殺到する受講者で塾が大繁盛していたのではない。まず3人とか5人の生徒(ほとんどの場合、生徒=友人たちなのだ)を自分で集めて、宣伝も広告も営業も嫌がらず、恥を忍んで受講生を集め、自分で集めたんだから夢中で教えて、実績が出るから2倍に増え、3倍に増え、やがて10倍に増え、そうやって大きくなる。「教えることは聖職ですから」と済ましている公立学校の教員には一生味わうことのできない、塾の先生の醍醐味なのである。
 1月31日朝日新聞の読書欄で、日能研塾長・高木幹夫氏の「予習という病」(講談社現代新書)についての書評を発見。書名自体は余り感心しない(ライバル四谷大塚の「予習シリーズ」を相当意識しているものと思われる)が、読むだけの価値は十分にある本である。
 今井どんは授業でもテキストのはしがきでも「復習中心主義」を力説していて、「予習なんかじゃ、力はつかない。ひたすら復習に励むべし」と言い続けてきた。「いやしくも先生ともあろうものが『予習してこないと授業がわからないぞ』などと発言するのは、怠慢なんじゃないか、よほどひどい授業なんじゃないか」というのも、今井君の意見。高木氏の本はもっとずっとずっと高尚、遥かに高尚なことをおっしゃっているのであるが、まあとにかくいい本だと考える。
 しかし、この本についての大学教授の書評を読むと、あきれるほど高飛車である。「塾の先生だの予備校の社長だの、その程度のヒトの意見をマトモに聞く必要は感じないと思う読者も多いだろうが」という前提に立って、「驚いたことに、まあマトモなことも言っている。めくってみる価値はある」というスタンスでの書評なのである。「商売なんでしょ?と決めつけずに、耳を傾けるべきである」という書き方には、「教育とはもともと広告・宣伝・営業とは無関係の聖職」という大昔の発想が、いまにもドロドロと溢れ出しそうに見える。

(ウィーン、クリスマス市のオーナメント店。本文とは他の2枚以上に無関係です)

 今井どんはもともと広告会社にいたわけだから、広告主が自社製品についてどれほど確乎とした自信を持っているか、知っている。自信をもって社会に送り出せる商品でないと、広告もだらしない残念な出来映えになるものだ。
 「自信があるから、電話はしません」などというのは、邪道、あるいはシーラカンス的。そういう姿勢だからこそ「モンドなんとか金賞受賞」とか言って、そのへんの他人の評価に無責任に身を任せるしかなくなる。本来、絶対の自信に肉体をパンパンにさせている人間は、世界の中心で自社製品の素晴らしさを叫ぶものである。

1E(Cd) Kirk Whalum:IN THIS LIFE
2E(Cd) Kirk Whalum:CACHÉ
3E(Cd) Kirk Whalum:COLORS
4E(Cd) Billy Joel Greatest Hits 2/2
7D(DMv) DRESDEN
17A(γ) A TRASURY OF WORLD LITERATURE 39:KAFKA:中央公論社
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